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2008年12月18日木曜日

エレファント('03)    ガス・ヴァン・サント


<日常性と非日常性の、激突の瞬間に解き放たれた肉声> 



1  黒ずんだ雲が染め抜かれて



ミルク色の柔和な雲がゆったりとしたリズムで流れていき、次第にそれがブルーに染められて、最後には濃紺に変色し、そして闇の黒を映し出した後、そこに突然、闇とは対極の眩い黄色が映像を支配した。

それは、晩秋のシグナルとも言える黄葉だった。

その艶やかに染め抜かれた季節の中を、一台の乗用車が迷走している。ドライバーは酔っていて、同乗する少年が父から運転を代わることになった。

少年の名は、ジョン。オレゴン州ポートランド郊外にあるワット高校の生徒である。

ジョンは高校に到着した後、学校から自宅に電話し、兄のポールに父の迎えを頼んだ。不運にも背後に校長が待機していて、ジョンは校長室に来るように命じられたのである。

一方、写真好きの少年は、落ち葉を敷き詰めた公園内でアベックを呼び止めた。ポートフォリオ作りのために、格好の被写体を探していたのである。

「ヌードでも撮るか?」とからかう男の誘いを少年は丁寧に拒んで、アベックの写真を撮らせてもらった。

「もう少し笑って・・・面白い顔をして・・・そのまま歩いて・・・」

そんな注文をつけながら、少年は手慣れたカメラマンになりきっていた。

「最高だ。学校に行かなきゃ」

少年は相手に感謝の念を伝え、自己紹介して公園を後にした。少年の名は、イーライ。彼もまた、ワット高校の生徒である。

ベートーベンの「月光」のピアノの旋律が、静かに奏でられている。

その調べに合わせるかのように、ワット高校の校庭では、アメフトの練習が淡々と行われていた。練習を終えた一人の少年が教室に入って来た。

「月光」の調べが、彼の後を追い駆けていく。廊下ですれ違った三人の女の子の一人が、「彼、かっこ良くない?」と他の二人に話しかけた。少年は待ち合わせのガールフレンドと落ち合って、授業の話をする。彼らの名は、ネイサンとキャリー。

校長先生に居残りを命じられたジョンは、人のいない教室に入って、涙を流した。

そこにたまたま入って来た、同級生の女の子に声をかけられた。

「どうしたの?」
「いや別に」
「泣いてたの?」
「まあね」

ジョン(右)
彼女はジョンの頬にキスして、「じゃあ、同性・異性愛会があるから」と言って、教室を離れた。

彼女の名は、アケイディア。彼女は、「同性・異性愛会」が開かれている教室に入って行った。

「ゲイの人が町を歩くとき、どこでゲイだって分る?」
「そもそも、分るの?」
「いい質問だ」
「実際、分らないと思うけど」
「状況によって分ることも。わざと見せたり」
「そうだとしても、どう分る?」
「もし、誰かの髪がピンクだったら・・・」
「ピンクを着ていても、性的趣味までは・・・」
「男だって着るじゃない」
「確かにな」
「虹色の小物を多くつけてたら・・・」
「ほら、皆も参加して・・・」

どうやら、本日のこの会の議題は、「人を見ただけで、ゲイであると分るかどうか」というテーマらしい。議論はいつまでも続いている。

授業の始まりを告げるベルが鳴る廊下で、イーライはジョンと擦れ違って、彼の写真を撮らせてもらった。

ジョンは学校を抜け出て、表に出た。


そこに、向こうから二人の友人が、その手に重い鞄を持って歩いて来るのを見て、ジョンは声をかけた。

「何するんだ?」
「中に入るなよ。地獄になるぞ」

二人はそう忠告して、教室の中に入って行った。

二人の少年は迷彩服らしきものを着ていて、共にリュックを背負い、いかにも重装備の出で立ちだった。

エリックとアレックスに声をかけるジョン
二人の少年の名は、エリックとアレックス。


映像はその後、物理の授業の風景を映し出す。

教師は難しい講義を続けていて、その授業についていける生徒と、授業の意味が分らなくて、ただそこに座っているだけの生徒に二分されてしまっている。

一人の生徒が、最後尾の席に座る生徒に物を投げつけた。

投げつけられた生徒は、アレックス。

彼はどうやら学校でいじめられているらしい。

アレックスは授業の後、トイレに服の汚れを拭いに行った。

その後、校内の食堂の中に入って、なにやらメモを取っている。

計画段階でのアレックスのリサーチ①
彼の視線は食堂の周囲をぐるりと見回して、定まることがなかった。それは建物の様子を探っているようでもあった。

イーライは校内の長い廊下を歩いて、写真部の部室に入って行き、暗室の中に消えて行った。撮った写真を現像するためである。

ミシェルという名の女子生徒が、体育の女性教諭から、歩きながら注意を受けている。

「体操着だけど、長いのはだめよ。皆は短いのに。私も減点したくはないけど、短パンになれないのなら仕方ないわ。今日は見逃すけど、明日はちゃんと着るのよ」

ミシェルは「分りました」と答えて、一人体育館の中に入って行った。

イーライは先程の暗室から出て来て、撮った写真のネガを乾かしている。その作業は、殆どカメラマンを目指す者の、手慣れた一連の動作を映し出していた。

一方、体育館から出て来たミシェルは、皆と一緒にシャワーを浴びられず、一人ロッカー室の隅で私服に着替えている。「ダサい子」という女子生徒の声が、後方から聞こえてきた。

イーライはネガを暗室で引き伸ばしていた。引き伸ばしたその写真を、照明光のある部屋に出て、ロープに吊るして、それを乾かした。

彼はカメラを持って、廊下を歩いていく。

ジョンとイーライ
そこでジョンと擦れ違って、彼を被写体にして写真を撮った。このシーンは、先程の描写をジョンの反対側の角度から映し出したものである。

ジョンが向った先は、図書室。そこでは、ミシェルが図書の整理の作業を、図書教諭に注意されながらも続けていた。

廊下には、三人の女子生徒が屯(たむろ)していた。

ブリタニー、ジョーダン、ニコルである。彼女たちの横を、ネイサンが通り過ぎていく。

見栄えのいいスポーツマンの人気は高いらしく、彼女たちは彼の噂を繋いでいく。彼がキャリーと待ち合わせしたのを見て、話題はどんどん広がっていくばかり。

このシーンも、先程のネイサンとの擦れ違いの描写を、今度は彼女たちの角度から映し出したものである。この映画は、それぞれの生徒たちの学校での日常性に、時系列を合わせて繋いだ作品になっている。

校内の食堂で三人は、食べることよりも、お喋りすることの方に関心がシフトしている。歩きながらもずっと喋り続けて、トイレに入って一様に吐き下していた。


映像はここで、アレックスの自宅を映し出した。

彼はピアノに向かって、静かな音楽を弾いている。

「エリーゼのために」である。これも、ベートーベンの代表的なピアノ曲で、今なお、ポピュラーな人気を保持していることは周知の事実。

また、彼の部屋の壁の其処彼処(そこかしこ)に、彼が描いたと思われる絵画が飾ってある。

その絵画の中に、本作のタイトル名にも繋がる「エレファント」のデッサンらしきものも含まれていた。どうやら、彼の趣味はピアノと絵画にあるらしい。

そこに、友人のエリックが訪ねて来た。エリックは彼の演奏が終わるまで、パソコンで殺人ゲームに興じている。

アレックスのピアノ曲は、いつしか「月光」に変わっていて、一見繊細なイメージを印象付ける少年は、それを最後まで弾き終えた。弾き終えたアレックスは、エリックのパソコンを取り上げて、「銃器の通信販売」の画面に切り換えたのである。

その直後に映像が映し出したのは、どこまでも続く青い空の中に、黒ずんだ雲が染め抜かれていて、少しずつ闇に呑まれていく描写だった。この描写は、本作のファーストシーンから繋がる脈絡性を持つかのようであった。

その日、エリックはアレックスの部屋に泊って、朝を迎えた。

アレックスの母が作った簡便な朝食を平らげた後、二人はテレビに見入っていた。そこで流されていたのは、戦前のナチスの映像である。

「ミュンヘンではヒンズーの象徴、鉤十字をナチの象徴に採用し、それを何百万倍に増幅した」

ハーケンクロイツ(イメージ画像・ウイキ)
テレビが映し出すナチの旗に、「この旗って買えるの?」というエリックの問いが放たれて、アレックスは

「ああ、イカれていればね」と躊躇なく答えた。そこに、通信販売で頼んだ物が届けられたのである。届けられた物こそ散弾銃だった。

まもなく二人は銃の試射をした後、アレックスが自宅のシャワーを浴びている映像を映し出した。

そこにエリックが入って来て、淡々とした口調で言い放った。

「今日、死ぬんだよな。キスしたことないんだ。お前は?」

アレックスはそれに何も答えず、エリックと抱き合った。


二人はその後、学校の見取り図を前に作戦を練り、それを確認していく。

エリックとアレックス(右)
作戦のリーダーは、アレックスである。彼は相棒であるエリックに、リーダー然として語っていく。

「食堂で最初の爆発の後、連中を撃ち殺して東棟へ移動。もう一発、体育館で爆発して、講堂でも爆発し、連中が逃げ惑う間に一人ずつ殺せばいい。それでお前は黄線を進んで、B作戦に突入、校長室で皆殺しだ。俺は赤線で廊下へ、狙いは運動系の連中だ。殺し放題だぜ。お前は小銃とライフルで、俺は散弾銃とライフル。拳銃とナイフもある。弾薬もたっぷりある。とにかく楽しめよ」


映像はリアリズムの波動を全く見せることなく、必要なだけのカットを淡々と繋いでいく。



2  雲の上の青空を映し出したとき



二人は完全武装して、今ままさに、学校の棟内に入って行こうとする。その手前でジョンと出会って、忠告した。

「中に入るなよ。地獄になるぞ」

不安を覚えるジョン
ジョンは怪訝な顔をして、二人を振り返った。

彼は教室に入ろうとする者を呼び止めて、「入るな!何か悪いことが・・・」などと言って、引き返させようと努めたのである。彼には、二人の武装した格好が異様に映ったのだ。

二人は、最初に図書室に入って行った。

そこにはミシェルが本の整理をしていて、イーライがカメラを構えて、二人を撮ろうとした。その瞬間だった。アレックスの銃が放たれて、ミシェルが撃ち抜かれたのである。

図書の棚の本が鮮血に染まったとき、室内は一瞬にしてパニックになった。

イーライも撃ち抜かれて、室内にいた生徒が次々に倒れていく。

トイレにいた三人の女子生徒も犠牲になった。「同性・異性愛会」の生徒も犠牲になり、廊下からは火の手が上った。その中で一人、ベニーという名の黒人少年は落ち着き払っていて、「同性・異性愛会」のアケイディアを窓から脱出させた。

エリックは廊下で校長と遭遇し、「銃を置いて話し合おう」と懇願するだけの大人に、銃を持って対峙していた。

一方、校庭で生徒に必死で呼びかけていたジョンは、父を探し出し、身の安全を確認した。

「二人、入って行ったよ・・・バッグを抱えて、入って行ったんだ」
「何てことに」と父。
「どこにいたの?」と息子。
「父さんはただ・・・済まなかったな」

呆然と立ち竦むジョンと父
親子は火の手が上る校舎を遠目に見ながら、そこに呆然と立ち竦むだけだった。

エリックは、校長を責め立てていた。

彼は「敵」である校長を存分に甚振(いたぶ)った後、殺すつもりでいるのだ。

「殺されて当然なのさ。な、そうだろ?でも生かしてやるから、頭に叩き込んどけ。生徒が相談したら、いじめの話も聞くんだ。連中が何と言おうと・・・」

そこまで言ったとき、エリックは背後に人の気配を感じ、振り向いて撃ち抜いた。撃ち抜かれたのは、一人だけ落ち着いて校内を歩いていたベニーだった。エリックは再び校長に対峙して、非難の言葉を浴びせる。

「とにかく分ったか、ルース校長。被害者はまだいるから、同じ仕打ちをすれば、殺しに来るぞ。気が変わる前にとっとと行け!」

校長は廊下を必死の形相で逃げていく。それをエリックは、いとも簡単に後ろから撃ち抜いたのである。

「うじ虫め!」

校長を射殺するエリック
この言葉を残して、エリックは別の場所に移動した。

一方、アレックスは完全に殺人マシーンとなって、校内を支配している。激しく動き回り、銃を乱射する。

「こんな嫌な、目出たい日もない」

心の中でそう呟いて、彼は獲物を必死に物色している。

食堂には死体が置き去りにされていて、人の気配が全くない。アレックスが食堂の椅子に座って、誰かが飲みかけたドリンクを飲んでいたとき、エリックの声が届いた。

「飲んだらヘルペスになるぞ・・・どうだった?」
「まあまあかな。そっちは?」とアレックス。
「校長と、何人か殺ったよ」とエリック。勝ち誇ったようでもあった。

その瞬間、エリックの頭蓋が撃ち抜かれた。撃ち抜いたのはアレックスだった。

その行為は、殆ど確信的であるように見えた。

彼はその後、物音のした調理場に入って行き、冷凍庫を開けた。そこには、ネイサンとキャリーが隠れていた。

「あれあれ、誰かと思えば・・・」
「止めてくれよ」
「ど・ち・ら・に・・・しよう・・・か・な・・・カ・ミ・サ・マ・の・・・い・う・と・お・り」

アレックスは、命を乞う彼らに銃口を向けて、まるでゆっくりと甚振ることを愉悦する  
ようにして、今まさに発射しようとする。

映像はここで閉じられた。

ブルーに染められた灰色の雲が映し出されて、少しずつ雲が切れ、雲の上の青空を映し出したとき、フェイドアウトしていった。

そこに、「エリーゼのために」の静かな旋律が追い駆けていく。最後まで旋律の落ち着きが崩されることなく、恰も予定調和の世界に流れ込んでいくような不気味な律動感が揺蕩(たゆた)っていた。


*       *       *       *



3  非日常の激発のエネルギーが巨大なマグマとして立ち上げられたとき



この映画は、不思議な作品である。

何もかもアメリカ映画らしくないのだ。

実在の著名な大事件をモデルにしているのに拘らず、取り立てて声高に叫ぶ訳でもなく、誰にでも分る明瞭なメッセージを、そこに暑苦しく畳み掛けている訳でもない。

イメージ画像
映像の中に、三度(みたび)、雲が流れ行く描写が、まるでそれが何かを象徴するものであるかのように映し出されているが、印象的なのは、その描写を追い駆けるようにして、ベートーベンのピアノ曲が優しく奏でられていくシーン。

それが一体何を意味するのかという疑問も含めて、この作品は何か重要な描写を、まるで確信的に削っていく覚悟をもって、一切を観る者に委ねてしまうような作り手の意思を感じてしまうのだ。

つまり、作り手の何某かのメッセージの、全ての解釈と把握を観る者に委ねてしまうところにこそ、唯一のメッセージ性を感じてしまう作品なのである。

それにも拘らず、本作の中に、作り手の何某かのメッセージを受信するとすれば、以下のような把握になるだろうか。

即ち、作り手がここで描きたかったのは、実際に出来した事件をモデルにしながらも、当該事件の合理的解明であるというよりも、寧ろ、事件を起こすことによって生じた日常性の破綻と、そこに関わった者たちがその一瞬において経験した、固有の時間の絶対的破壊のさまの記録であり、そして、それを作り出した者たちの、非日常の激発が表現する、厄介な破滅的躍動感の時間とのコントラストであるのかも知れない。

確かに本作は、日常性の内に破壊的に侵入してきた非日常性によって、その日常性が呆気なく崩されて、そこに現出した非日常性の狂気の世界に支配された、日常性の脆弱さを描出していた。そして校内にいた誰もが、その非日常の襲来を予測していなかった。

しかし、まさにこの空間を契機に生成されたであろう、非日常の激発のエネルギーが巨大なマグマとして立ち上げられたとき、加害少年たちの周囲を些かサディスティックに踊っていた者たちばかりか、彼らと無縁な日常性を高校空間に繋いでいた生徒たちまでもが暴力的にインボルブされて、それぞれの濃淡の度合いの落差を表現しつつも、その空間との繋がりの内に形成されたそれぞれの固有な息遣いが、一瞬にして解体されてしまったのである。

そのことの無残な余情の継続性を、明らかに作り手は狙っていたとも言えないか。

或いは、こんな風に考えられないだろうか。

殺害される近未来とは無縁の日常性を繋ぐ、食堂の女子グループ
本作は、本来、日常性であるべきはずの学校空間を、そこにいるだけで耳を塞ぐほどに非日常化させてしまった者が、その空間をそれぞれのサイズで日常化することができた多くの者たちのその日常性に侵入し、そこで圧倒的暴力の空間支配という非日常性を作り出したとき、そこで生まれた逆転の「時間性」のリアリティを、特定的に選択された者たちの視線を通して、殆どドキュメンタリーの一篇のような技法で表現した、思春期に呼吸を繋ぐ生徒たちについての直截な記録であった。

要するに作り手は、高校生たちの日常性と非日常性の、あまりに過剰なまでの激突の瞬間の内に解き放たれた肉声を、加害少年たちのハードな空間支配の破滅に向かう躍動を通して記録したかったのではないか。

しかし学校空間を日常性にしていた者は、それを日常化できなかった者の非日常性に気づくことがなかった。

気づかれなかった者の非日常性は、武装することによって初めて、その非日常性の地雷原の恐怖を、過激に表現していく行為の中に身体化するしかなかったということなのか。

そしてラストシーンで、アレックスが相棒をも撃ち抜いたとき、彼の非日常性は、破滅に向かう者の覚悟を暗示させる最終的な身体表現であり、更に、彼が最も憎んでいたであろうアベックを視界に捕捉したとき、彼は殺しのゲームを完璧に愉悦する心地良さの内に、その心を解き放った。

それこそまさに、彼の破滅のプログラムの最終章であったかのように。

更に、もう一点。

この指摘なしに括れないほどの重要性を持つ問題がある。それは紛れもなく、「銃」に象徴される存在の、不気味なまでの決定力の甚大さである。

この問題意識によって映像をシンプルに把握すれば、作り手のメッセージについての理解はそれほど難しいものではないであろう。

作り手のイメージと無縁に言えば、「エレファント」という題名に象徴されているように、その存在性において、或いは、その身体性と精神性においても脆弱さを露呈する者が、その脆弱さを日常性のリアリティの只中で、継続的に認知するという悪夢から解放される手っ取り早い方法論の行き着く先は、「銃武装」の決定力を越える何ものでもなかったに違いない。

自分の力を巨大なものにイメージ変換させてくれる手段としての、「銃」の存在価値の甚大さは、まさに、「エレファント」というイメージに収斂される何かでしかなかったのである。

二人の少年が、ネット通販を利用して容易く手に入れた散弾銃は、まもなく、脆弱なる少年たちの自我を肥大させる格好のツールになっていく。

少年たちが「銃武装」するに至った短兵急なシフトは、過剰なまでに利便性が高く、且つ、そのような利便性を保証する社会の危うさを晒す、これ以上ない説得力を持つ描写であったと言えようか。

脆弱なる少年たちの、「エレファント」へのシフトの驚くべき簡便さ。そこにこそ、本作が内包した「テーマ性の怖さ」がある。

最後にもう一言。

本作は、青春映画としても秀逸であったということだ。

虐めを受けていたアレックスの「日常性」
何よりも、青春の日常性の内に、非日常の狂気が激発的に侵入してくるまでの短い時間の中で表現されたリアルな青春のひととき、まるでそれは、望遠カメラで盗撮したかのような青春の鼓動が、そこだけ切り取られた感のある、その冷厳なリアリズムに驚きを禁じ得ない。

更に加えて、青春映画の独壇場のようなベタな描写が完全に捨てられていて、それだけでも充分に鮮烈であった。

そして、観終わってから暫く経っても、簡単に忘れられない何かがそこにある。

それはある種の怖さであるが、その「テーマ性の怖さ」と言えるものを、一本の小さな劇映画の枠内で、情緒含みに激発させなかった演出の括り方それ自身が、私には最も印象に残って止まないものだった。



【余稿】  〈 映像の背景に澱む世界についてのささやかな考察〉


この一種不思議な映像について、私なりの問題意識に寄せて、縷々(るる)言及したいと思わせるものが出来したので、以下、本作との直接的な脈絡性はないが、稿を新たに言及してみたい。それは映像評論と言うよりも、寧ろ、この映像から汲み取った私の問題意識の言語化である。

ガス・ヴァン・サント監督
―― 先述したように、作り手は、本作で描かれた「事件の深層」に迫る確信的な解釈を映像化しなかった。

しかし、事件を構成するであろう様々な要素については、映像の随所に散りばめられているのである。

それらを列記していくことで、映像の背景に澱む世界について考えてみよう。

些か長大な文章だが、一応私はそれらを、以下のようにまとめてみた。


.高校内で虐めが存在していて、事件の加害者はその虐めの対象者であったこと。これは、物理の授業で事件のリーダーが、濡れティッシュを投げられて、自分の服をトイレで拭っていた描写に映し出されていた。

.事件のもう一人の加害少年は、明らかに、学校を管理する校長を含めた教師たちに不満を持っていて、その不満の中に生徒間のいじめの放任があったことが窺える。これは、事件当日、少年が校長に執拗に糾弾するシーンの中で、集中的に表現されている。その後、少年が逃げていく校長を射殺する描写は、まるで「3」で指摘したゲーム感覚を顕在化させたものようだった。しかしそこに、散々甚振った後、解放した振りをして殺害する行為の心象世界の歪みを読み取ることが可能である。

.両少年はコンピューターゲームを通じて、日常的に殺人遊戯を楽しんでいたこと。これは宅配便を待つエリックが、ゲームを愉悦する描写によって代表される。またそれは、相棒を撃ち殺したリーダー少年が、本来、最も嫌っていたはずのアメフトの男子生徒を冷凍庫に追い詰めて、その殺害を愉悦するように実行する感覚と通底するものでもあった。

.加害少年のリーダーはピアノと絵画を趣味とする文科系的なタイプの少年で、彼の中に体育会系の生徒たちに対する憎悪があったこと。「1」のいじめとも関連するらしいこと。これについては、後述する。

.当高校の校長は、生徒の遅刻などの生活態度に対して、常に管理的な厳しい指導で対処してきたということ。これは、冒頭のジョンの校内からの電話のシーンの後の描写のシーンで窺える。更に、この校長が命乞いする描写に、校長の人格性を浮き彫りにさせていた。しかし自分の命の危機に立ち会ったとき、人は皆、事件の現場を悠然と闊歩するベニー少年のような英雄的振舞いを表現し得るか、甚だ疑わしい限りである。この振舞いのみで校長の人格を特定するのは、あまりにアンフェアであるとも言える。

.二人の加害少年は、共にナチスドイツの偏狭的なイデオロギーに共感し、とりわけ、邪魔者を暴力的に排除するナチスの行為に対して共感していた節が見られること。これについては、モデルとなった事件(コロンバイン高校銃乱射事件)の加害少年たちの浮薄な「思想性」と合致するものである。

加害少年たちの殺害対象の埒外にあったジョン
.加害少年たちの事件の目的は大量無差別殺戮にあったが、しかしその中でも、その対象に特定的な例外を置いていたこと。これは校内から出て来たジョンに対して「中に入るな」という忠告する描写によって理解される。少なくとも、事件のリーダーにとって、殺害したくない対象が特定的に存在していたことは事実である。

.彼らは女子生徒に対して反感と嫌悪感を持っているが、「性」に対して未成熟な自分たちの劣等意識と裏腹の関係にあった。彼らは恐らく、本来的にゲイ志向ではないのに、リーダーの少年のシャワー室で抱擁し合っていた描写は、その意識を検証するものである。彼らはこの世でやり残した性的衝動を、このような形で儀式的に通過することで出陣したのである。

.ネット販売で、銃を容易に入手できるという現実が存在していたこと。これについては、著しく看過できない重大な問題なので後述する。

10.少なくとも、リーダー少年の家庭環境は、一種の放任家庭であったということ。これについては、ワンシーンのみで推測したものなので、事件の要因を構成する重大な問題の一つであるかについて特定できない。


ここで説明されている事象は、全て表層的な現象であって、「7」、「9」の問題を除けば、豊かな国に住む青少年を囲繞する普通の風景であると言っていい。

だからこのような事象の列記は、本質的に後付けの解釈に流れやすい危険性を孕んでいることは事実である。

しかし、映像で映し出されたフィルムがドキュメンタリー記録ではないにも拘らず、映像は以上の事象しか観る者に残さないのだ。

その挑発的というか、思考停止感覚としか思えない映像世界が、ある意味で確信的に作り上げられて、熱情的に噴出しそうなものを、極めて抑制的な配慮によって、そこに類例のないリアリティを保障した筆致に対して、とても看過できないものがあると考えざるを得ないのだ。

だから私は、私自身の極めて主観的な把握によって、本作について言及するつもりである。

まず、一番気になる問題から片付けていく。

それは「4」の問題である。

色々、本作に対する感想の類に眼を通して来たが、その中に、「ピアノと絵画を趣味とする少年が、なぜこんな犯罪に走ったのか」という極めて素朴な発問が含まれていた。

往々にして、この種の意見を耳にするが、私ははっきり言って、この種のテーマ設定自体がナンセンスであると考えている。

なぜなら、趣味と人格性の問題を同一のものと捉えているか、或いは、前者の問題を後者の問題に還元させてしまっているからである。「文化的な趣味」と「凶悪なる犯罪への志向性」は、一個の人格の内に充分なほど同居してしまうのだ。

もっとはっきり書けば、自分の甥をその母から奪った挙句、遂に、その甥に自殺未遂を出来させしめたベートーベンのような「人格障害者」が、「エリーゼのために」、「月光」という短調の美しい旋律を創り出すことは、別段矛盾した事態である訳がないのだ。

どれほど「高貴」で「気高い」理想を持ち、その理想に沿って美しい文化的表現を刻んだにしても、それが、そのまま本人の「崇高」な人格と直結する訳がないのである。それが人間であり、人間であることの本来的な生態であると考えた方が、遥かに理性的な人間理解であるということだ。

従って、本作における心象世界にアプローチする上で、以上のテーマ設定は全く無意味であるということだ。

しかし、映像には明らかに、この少年の心象世界を探るヒントの手掛かりとして、繰り返し、彼のピアノ演奏が静かに奏でられていて、しかもその思いの澱みを、空と雲の描写によって象徴されていたのである。

先述したが、本作で印象に残る描写の一つに、この空と雲の描写があるが、三度に亘るその描写は微妙に変化を見せていた。

ファーストシーンの明るい空と、そこを流れる柔和な雲の描写。

これはまだ、事件を起す直前のアレックスの、未だ殺人マシーンと化していない心象世界を描き出しているのか。

それは、世俗的日常性と僅かに繋がっている少年の内面を表すものであるとすれば、やがて闇の黒に呑み込まれていく描写の意味は、日常を噛み砕いていく非日常の尖りの支配を暗示しているのだろうか。

そして、ラストシーンのブルーに染められた灰色の雲に覆われて、最後にその雲が切れて、青空が画面を支配していく描写の意味は、事件を起した後の少年の心の闇と、やがてそれが、自死によって完結する魂が辿り着いた慰安を暗示するものか。全く確信的了解性に軟着陸できないイメージだが、それが少年の内面世界を映し出していることだけは否めないように思われる。

作り手が一貫して少年の内面描写をフォローしていかないので、このような映像の枠内で、少年の心象の象徴性を嗅ぎ取るしかないということだ。

即ち、そのことは、少年の文化的趣味のみで、事件を語ることの無意味さを示すことに他ならないとも言えるのである。

では一体、何が問題なのか。

この直後に破壊される、暗室でのイーライの日常性
何もかも問題であるかも知れないし、何も問題でないのかも知れない。それは、事件を限定的に把握することの無意味さを示すのかも知れないし、或いは、事件の本質に迫ることの困難さであるのかも知れない。


一応もう少し、ここで列記した問題に拘ってみよう。

ここでは、「3」と「9」の脈落性を考えてみたい。

事件の背景を考えるとき、やはりこの二点は看過できないだろう。

まずコンピューターゲームそれ自身が前頭葉に与える負性的側面の大きさは、近年、「ゲーム脳」という問題提起によって世論を賑わせているが、私見を書いていく。

コンピューターゲームを手放せない青少年たちが、「ゲーム脳型人間」になることで、大脳新皮質の前頭前野の活動水準が劣化し、本来それが機能すべき、抑制能力や知的判断力の低下を招いていくという把握について、近年、多くの否定的な解釈が本流を成しているように見えるものの、筆者には、未だにその仮説を「疑似科学」と断定する確信が持ち得ないのだ。

少しテーマから広がるが、その前頭前野=自我の問題について言及する。

情動を抑制するのは、人間の自我である。

その自我の中枢的役割は、言わずもがな、「生存戦略」と「適応戦略」の司令塔であると言っていい。

人間の行動原理はそもそも、「快不快の原理」、「損得の原理」、それに「善悪の原理、或いは、正不正の原理」であると言っていい。

私たちの自我は、残念ながら生得的なものではない。

それは、自分をこの世に送り出してきた環境世界の中で育てられ、形成されていくものだ。

生来的に備わったDNAをベースに、新しい生命はその環境世界で、限りなく「快不快の原理」で振られていくその身体表現の無垢さを脱し、表現の基準の内に、「それをやったら得になる」、「それをやったら損をする」という思考の合理的枠組みを形成していくに至るであろう。これが自我の形成的獲得であり、その強化と柔軟な思考性の達成的確立化でもある。

自我は更に内側に、「良心」という名の様々な内省的意識を形成していくことで、「損得原理」では収斂されない人間学的、倫理学的テーマにも馴染んでいくであろう。「善悪の原理」の判断能力の向上によって、人間の自我は豊饒な内面世界を構築することにもなる。

しかし、以上の文脈は可能性の問題であって、全ての自我がその内側に磐石で、柔軟な判断力を備えた精神世界を構築する訳ではないし、そこには様々な個人差が現出するであろう。

それ故にこそ、強固で豊かな自我を確立するか否かというテーマこそが、私たちの精神史の最大のテーマであることを認めざるを得ないのである。

そして、その自我の物理的基盤こそ、私は大脳皮質の前頭前野であると考えている。

従って、この前頭前野の活動水準の低下は、情動系の暴走を許すことに繋がり、極めて危うい内面世界をしばしば顕在化させてしまうのである。

正直、「神経神話」と言われているという感覚を信じるほどに、私は「ゲーム脳」の仮説を全面的に支持している訳ではない。

まだまだ、それが脳科学の一大テーマとして認知されていくには、多くの科学的データが必要であるとも考えているのだ。

しかし、ゲーム漬けの生活を過剰に蕩尽することは、慢性的な理性的判断力の低下に繋がると考えるのは間違っていないだろう。何事も過剰に流れ込むことが、心的バランスの恒常的維持にとってハイリスクになることを否定できないのである。

ゲームセンター
ゲームの過剰な快楽によって、ゲームへの過剰な身の預け方を抑制するのは、遥かに大変な事態なのである。

その時点で形成された自我能力のレベルを考えるとき、人間が快楽の方向により多く振れていくことは、恐らくゲームを考案し、それを作り出した者でも想像の及ばぬテーマであったに違いない。

人間の自我は、高度に発達した文明が生み出した消費社会の爆発的うねりに対して、あまりに無防備であり過ぎるし、それを抑制するDNAが形成されるに至っていないということなのだ。そして殺人ゲームの存在と、思春期の自我の関係はとても厄介なテーマだが、考察研究すべき由々しきテーマであることには変わりないだろう。


次に、「9」の問題。即ち、銃のネット販売の問題である。

これに関して、私は断言してもいい。

銃をネット販売するというシステムは、絶対的に問題である。

日本でもそれは可能だが、我が国では登録制度が強化されているので(注)、高校生が簡単に入手し得るという可能性は殆んどない。

しかしアメリカでは、年間百万丁もの銃の売買が成立していて、中高生でも簡単に入手できる現実がある。銃規制に動き出す政府のパフォーマンスとは裏腹に、ネット販売による銃の流通は、寧ろ活発化してきているという報告もある。

因みにアメリカでは、銃使用のみによる殺人事件の件数だけで、年間1万人もの犠牲者が発生しているのである。

これは全ての殺人事件の総数が、年間千人を超える程度に過ぎない日本の治安の現実と比べると、そこで当然国土の広さがあることを勘案してもなお、その数字が示す治安のレベル度の差は歴然としている。

余談だが、日本の過半のメディアは連日のように、この国の「荒廃」を訳知り顔に叫び続けているが、それは逆に言えば、毎日三件程度の頻度で起る殺人事件を、詳細に、且つ漏れなく報道することによって、何となくその誇張されたバンドワゴン効果(アナウンス効果)によって、この国の「荒廃化」の現実を信じ込んでしまうのであろう。

この国の「荒廃化」の予兆を全く感じないほど私は鈍感であると思っていないが、しかし「社会の荒廃」を声高に論じ、それを全て時の政府の政策の結果の責任に転嫁するならば、私としては、「社会の荒廃」についての定義を正確に求めたいものである。それについては、本稿のテーマと外れるから、別の機会に論じたいと考えている。

ここでは、銃の話である。

「ボウリング・フォー・コロンバイン」より
アメリカの銃社会の問題は、マイケル・ムーアが告発しているが(「ボウリング・フォー・コロンバイン」というタイトルの、あからさまなプロパガンダ映画で、本質的に、啓蒙的意図を持った非ドキュメンタリー映画)、私には銃社会それ自身の問題というより、子供も簡単に銃を入手する社会のあり方こそが真に問われるべき問題である、と考えざるを得ないのだ。

それにも拘らず、本作の事件のバックグラウンドに、時限立法のブレイディ法(銃規制法)を簡単に失効させてしまう(2004年)、この国の銃社会の尖りがあることを認めてもなお、しかし、それはあくまでも事件の構成因子であるに過ぎないのである。

つまりその問題は、加害少年が銃を入手しなかったら事件が起こらなかったという因果関係を、必ずしも説得力を持って説明することにはならないということだ。


(注)しばしば出来する銃使用による事件が問題化されながらも、実際の所、毎年の銃検査と3年毎の免許更新があり、その厄介な手続きのため、所持者の老齢化に伴うハンター不足が深刻な現状を呈している。


―― では、彼らの事件を俯瞰するとき、一体何が問題なのか。

以下、私の把握について言及する。題して「事件の深層」にあるもの。

極めて掴み所のない厄介なテーマだが、それを要約するとこうなる。

私たちが辿り着いた近代文明社会の拡大的で、加速的な進行のレベルが、それを作り出した私たちの「状況感性」や「自我能力の学習的進化」のレベルを、いつも確実に上回ってしまっていて、そこに生じる様々に厄介な問題が、殆ど未知の分野に属するテーマ性を内包することで、事態が抱える深刻な問題性に対して十全に対応できないでいるということ ―― それこそが由々しき問題であると私は考えている。

その間、たびたび歴史的な経済恐慌に見舞われたとしても、この百年余りの間で、私たちは信じ難いほど経済的に豊かになり、大幅な自由を手に入れ、私権を獲得し、それを拡大的に定着させていった。

その結果、私たちは「絶対原理」の呪縛から解き放たれて、その生活の内実において、「自分は自分、人は人」という価値相対主義の人生哲学を、本音の部分で強(したた)かに身に付けてしまったのである。

これらの達成は、全て「私たちの近代」の達成の果実であり、その果実の糖分を一度嘗(な)めてしまったら、もう誰もそれを手放すことをしないだろう。

勿論、この達成は、残念ながらと言うべきか、未だ全地球的規模の達成には届かないが、しかし情報社会の目眩(めくるめ)く浸透力によって、なお貧しい生活に甘んじる人々が目指す指標は、間違いなく、「私たちの近代」が手に入れた、存分なる果実の糖分をその口に含むことにある。

彼らは、そこに向かって疾駆する。

その指標が自分の手の届く距離の辺りまで近づいたら、その疾駆は更に加速していくだろう。どこまでもそれを手に入れるまで、彼らの疾駆は止まらないのである。

私権の拡大的定着と相対主義の蔓延は、限りなく「絶対原理」の欺瞞性を削り取っていき、人々は誰にも侵害されることのない「私権の城砦」を、ひたすら守り抜くことに奔走していくことになる。

だから、未だ物理的共存を強要される空間や、そこでの強制力を伴ったシステム的な共同体への関わりにおいて、少しでも、そこに馴染みにくい因子が生じたら、そのシステムに身を預けていくことの息苦しさを人一倍感じることになるだろう。

その象徴的な物理的空間が、義務教育、ないし半義務教育的な外的強制力を随伴した学校空間である。

そこに通学する児童生徒は、例外なく、そのシステムが自らに強いる規範を受容することが前提になることで、そこでの規範意識の個々の落差が露呈されるに至るのは必然的であると言えよう。

「快不快の原理」に耽溺していた生徒や、ネグレクトされた生徒にとって、システムの中では、半ば約束事でしかない規範の遵守は圧倒的に苦痛であるか、それとも、不必要なまでに桎梏であるに違いない。

彼らは、外的環境下での秩序の馴致に対する学習をクリアしていない分だけ、秩序の緩やかな強制力を受容する能力において決定的に不足しているのである。

学校規範が自己の生活や意識のレベルにまで擦り寄ってくれるのなら、妥協の余地が生まれるだろうが、その逆のパターンを強いられる限り、彼らの反応はいよいよ尖ったものになっていく。

適応障害の状況性を内側で捕捉してしまうとき、彼らの何人かは、その「擬似共同体」から逸脱してしまう以外にないだろう。

計画段階でのアレックスのリサーチ②
しかし、そこから逸脱するには、そこが起点となって張り付いてしまった憎悪の感情を内側に蓄えてしまった負のエネルギーが、飽和点辺りにまで過剰に噴き上げてしまっているならば、もうそのエネルギーをマグマとして組織することで絶妙のタイミングで噴出させる以外になかったのであろうか。


本作の加害少年の心理の奥深いところには、「擬似共同体」それ自身と、そこでの空気を支配する教諭や体育会系の生徒、更には、ヤンキーな女子生徒に対する深い憎悪が明らかに形成されていたに違いない。

そして重要なのは、それらの負の感情を合理的に処理し、現実原則的に抑制し得る自我能力が、加害少年たちの内面世界で形成的に確保されていなかったという心理学的文脈である。

彼らは著しく規範意識を欠如させていた。それは彼らの家庭環境の問題に起因するとも言えるし、或いは、それ以外の何かの因子が絡んでいるかも知れない。

いずれにせよ、彼らの自我が充分すぎるほど情動系のラインに支配されてしまっていて、もはやそれを軌道修正されていく道筋を再構築していく可能性が削られてしまったということだ。

その澱みにプールされた情動系を暴走させるには、あとは何かほんの小さな契機さえあれば良かったとも言えようか。

そこには恐らく、様々な因子が脈絡していたであろう。

それは、本稿で列記した因子の集合であるかも知れないし、そうでないのかも知れない。

少なくとも、彼らの情動系が暴走するには、何か直接的なモチーフが媒介するだけで充分であったということだ。しかし「事件の深層」には、どこまでも彼らの自我の抑制能力の問題が伏在していることは否定できないであろう。

飽食と好物食いが約束された近代文明社会の生活文化の快適さの内側に、深く静かに潜航する、「自分のやりたいことだけを、特定的に選択する」というライフ感覚の自然な流れの中で、既にそれ以外の不快極まる生活感覚と完全に切れたラインが自立してしまっているのだ。

それぞれの応分の自我形成を安直に果たしてきた、「身体的に成人化しただけの思春期像」を、ごく普通の感覚で社会の只中に転がしていくしかない現実が、そこにある。

彼らの自我には、「嫌なものと我慢してまで共存する」ことの重要さが全く学習されていないから、「好きなときに、好きなものだけを、好きなだけやり続ける」という「快不快の原理」が、合理的且つ、現実原則的な自我の獲得の内に超克されていないのである。

後者の形成があまりに脆弱なため、彼らの自我は、いつまでも情動系の刺激によって振られ続けるばかりなのだ。従って、彼らを囲繞する外的強制力は、彼らにとって悉(ことごと)く、未知の分野での不快な力学という捉え方しかできなくなってしまっていること、これが切に問題なのである。

児童期には、「快不快の原理」で突き抜けた世界の軟弱性が、思春期に踏み込んで規範を強要する変化を見せるとき、彼らの自我はそこで戸惑い、ストレスを溜め込んで、逃避願望を膨らませてしまうだけだろう。

計画段階でのアレックスのリサーチ③
それほどまでに規範意識を作り出せなかった少年少女たちの日常性の根柢には、その身を預け入れていく対象のバリアの普通の障壁が、思春期を迎えた途端に彼らの未成熟な自我を囲繞する、社会的枠組みの存在それ自身の権力的な圧力としか捉えられなくなった、狭隘な自我の硬質化した心象世界が横臥(おうが)しているということではないだろうか。

経済環境の顕著な悪化を露わにしている時代状況の渦中にあっても、自壊し得ない価値観が自在に変容を遂げていくに違いないと予想させる社会が、なおそこに根を張って、あらゆる分野で心地良さを充足させてきた欲望自然主義の過剰な達成は、それを作り出した者たちの、状況感性でも届き得ない辺りにまで自律的に進化し続けた挙句、気が付いてみたら、予測し難い様々な異変の兆候を炙り出してしまっていた。

「温室効果」の危機が警鐘されても、天候異変による地球環境の崩れ方を正確に予知する能力を、一体、誰が持っていたというのか。

仮に、そのような者の辛辣な指摘があったにしても、私たちは自らの家屋が床上浸水しない限り、そのことの怖さを実感しなかったであろう。

同様に物質文明を作り出した者たちの苦労を知ることなく、生まれた瞬間から快適な生活に浸っていた自我が、その快適さの有り難さを全く感受することなく身体を大きくさせても、やがてその自我にヒットしてくる不快情報に対する免疫力が形成されていなければ、その快不快の落差に翻弄されるばかりになるだろう。

そして、「快不快の原理」を基準に流してきた脆弱なる自我にとって、結局、情動系のラインの暴走に呑み込まれるしかないのである。

一切は自我耐性力の、その能力のリアリティの問題であるとも言えるのである。

全てが、未知の領域なる世界への侵入こそが、私たちの現在的状況の真の恐怖であるのかも知れないのだ。

長々と書いたが、この論考がどこまで本作で描かれた事件の深層に届き得たか心許(こころもと)ないが、少なくとも、私の問題意識だけは記したつもりである。

(2006年8月)

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