このブログを検索

マイブログ リスト

  • 覚悟の一撃 2 ―― 人生論・状況論 - イメージ画像(日比谷公園) 価値は表層にあり ―― 表層を嗅ぎ分けるアンテナだけが益々シャープになって、ステージに溢れた熱気が、文明の不滅なる神話にほんの束の間、遊ばれている。表層に滲み出てくることなく、滲み出させる能力の欠けたるものは、そこにどれほどのスキルの結晶がみられても、今、それは何ものにもなり得...
    4 年前
  • パラスポーツが世界を変える - 【全ての医療従事者たちに深い感謝の念を抱きつつ、起筆します】 若きエース・鳥海連志選手 *1 今、地球上で最も変革を起こす力のあるスポーツの祭典が始まる* 「失ったものを数えるな。残された機能を最大限に生かそう」(It's ability, not disability, ...
    2 年前

2010年12月2日木曜日

マッチ工場の少女('90)      アキ・カウリスマキ


<「語り」を削り取ることで露わになる、人間社会の裸形の現実>



1  「地に繋がれた囚人」という「剥奪された日常性」



本作の基調音は、アンデルセン童話として有名な、「マッチ売りの少女」の悲劇をなぞるものである。

1本のマッチも売れない少女が、「役立たず!」と叱られる父親の恐怖に慄き、幻影の中で至福のひと時に浸った末に、全てのマッチを燃え尽くして死体と化した、「マッチ売りの少女」の悲劇が本作の通奏低音になっているが故に、「THE MATCH FACTORY GIRL」という原題を持つ、「GIRL」という不相応な設定を仮構したのであろう。

「マッチ工場の少女」もまた、その貧相な容姿と出で立ち故に、「アトラクティブ・スマイラー」(異性を惹きつけるスマイルを放つ女性)とは無縁な「GIRL」だった。

夜のディスコに出かけても誰も相手にされず、そこで歌われる甘美な音楽の歌詞(後述)にあるように、「地に繋がれた囚人」という「剥奪された日常性」のイメージが、「GIRL」の全人格のうちに張り付いているのである。

それは、オープニングで執拗に描かれる、ベルト・コンベアーで運ばれてくる、マッチ工場の製造ラインの工程に象徴される、物質文明社会の歯車のような存在感の剝落感であった。

機械音のみの無機質のイメージが、冒頭のシークエンスを決定付けていたのである。

「マッチ工場の少女」の名は、イリス。

そのイリス本人からは、生き生きした言葉は全く拾えないのだ。

語らないからだ。

その代わりに、イリスの心情を代弁するのは、前述したように、ディスコで流される甘美な音楽の歌詞である。

以下の通り。

海原の遥か彼方には 人の知らぬ国がある
浜辺に寄る波は暖かく 幸福の砂を愛撫する
目もあやな花々が 一年中咲き乱れて
心配も苦労もないし 争いも悲しみもない
いつか私もその国へ 幸福の国へ行けたら
その楽園から私は 決して離れまいに
でも私は鳥ではない 地に繋がれた囚人さ

まさに、「楽園への脱出」を夢見る「地に繋がれた囚人」こそ、「マッチ工場の少女」であるイリスの〈状況性〉だった。



2  復讐を決意し、遂行する「少女」



給料日のこと。

イリスは、ショーウィンドーで眼に留めた赤いドレスを買ってしまった。

怠惰な両親にそっくり給料を渡さなければならないイリスは、それを知った義父に「売春婦!」と罵られ、頬を叩かれ、母には返品を命じられる始末。

しかし、両親に秘匿して、その赤いドレスを着て、再びディスコに出向いたイリスは、自分にアプローチして来た男とダンスを踊り、一夜を共にした。

男のモダンな部屋で、イリスの表情は、ダンスの至福のひと時を延長させていた。

しかし、二人の関係はそれまでだった。

堪り兼ねたイリスは、男の自宅を訪ねていく。

「何か用か?」と男。
「会いたくて」とイリス。
「今日はダメだ。明日、8時に行く。場所は?」
「工場通り44番地の裏口」

男は、イリスの両親に会うことを約束したのである。

小さな愛想笑いを返し、ドアを閉める男。

微笑みながら帰っていく女。

その日、イリスは母に髪を整えてもらっていた。

男は約束通り、場末のアパートに住むイリスを訪ねて来たのだ。

「イリスは、今来ますよ」と母。

一貫して語らない義父。

まもなく、男はイリスを自分の車に乗せて、レストランに行った。

「うまいか?」と男。
「とっても!」とイリス。

その直後、男の口をついて出た言葉は、あまりにインパクトがあり過ぎた。

「思い違いをしないで欲しいが、一夜のお遊びだよ。これっぽっちも愛していない。君も私を忘れてくれ」

凍りついたイリスは、そのまま帰宅した。

帰宅したイリスがベッドで臥(ふ)せっているところに、母がタバコを咥(くわ)えながら寄って来るが、何も語りかけることがなく去って行った。

マッチ工場で、仕事に集中できないイリス。

妊娠の悪阻(つわり)の症状が出て、イリスは産科を訪ねた。

「心配ないわ。妊娠してます」

これが、産科医の反応。

ショックを隠し切れないイリス。

マッチ工場の同僚にその事実を告げても、素っ気ない反応しか返ってこないのだ。

思い余って、イリスは男に長い手紙を書いた。


「会いたくないのは知ってます。でも、是非お知らせしたくて。あたし、赤ちゃんができるの。女の子がいいわ。でも、男の子がよければ、勿論男の子。女の子なら奇麗な服。男はアイスホッケーよ。お嫌でしょうけど、赤ちゃんは見捨てないでね。病院に見舞いに来てくれると嬉しいわ。私を愛してくれることはないでしょう。でも、育てば子供は可愛いわ。この手紙は自分で届けます。他人の手に渡らぬよう。重要だと思えば、返事を下さい。運命の計らいだと私は思うの。これで良かったのよ。考え直してみて下さい」

男の会社に出向いたイリスは、手紙を直接手渡すが、後に返ってきた男からの返事の手紙は、小切手付きで、“始末してくれ” の一言のみ。

病院を訪ねて来た義父に、「家を出てくれ」と言われる始末。

結局、イリスは実兄の家に身を寄せるに至る。

この袋小路の状況下で、遂にイリスは、男に対する復讐を決意した。

意を決した彼女は、薬局で殺鼠剤を購入した。

そのときの短い会話。

「効き目はどう?」とイリス。
「イチコロ」と店員。
「素敵」とイリス。

イリスは、モダンな家に住む、男への最後の訪問を遂行する。

男のグラスに殺鼠剤を注入した後、映像は、それを飲む男の表情を映し出す。

更に、立ち寄ったスナックで、近寄って来た見ず知らずの男のグラスに殺鼠剤を注入するイリス。

最後に、イリスは両親のアパートに行って、かつてそうだったように料理を作り、残りの殺鼠剤を注入した。

翌日、工場で働くイリスに刑事たちが同行を求め、捕捉されるに至った。

そこで流されたBGMは、「マッチ工場の少女」の心情を代弁するものであった。

ひどい人 愛の夢を壊して踏みにじる
僕の眼に映るのは 冷たい残酷な大地だ
霜が大地を覆い 愛の花を枯らした
君がくれるものは 失望しかないのだ
恋の思い出は 今はもう重荷
愛の花も もう 輝きはしない
君の凍った眼と 冷笑が凍らせた
君がくれるものは 失望しかないのだ
恋の思い出は 今はもう重荷
君の凍った眼と 冷笑が凍らせた
愛の花も もう 輝きはしない
ひどい人 愛の夢を壊して踏みにじる
愛の花も もう 咲きはしない
ああ ひどい人だ! 愛の夢を踏み殺す



3  「語り」を削り取ることで露わになる、人間社会の裸形の現実 ―― まとめとして



「剥奪された日常性」によって「地に繋がれた囚人」が、「楽園」への脱出願望の夢を、束の間味わう快感を手に入れたとき、「想像の快楽」を「達成の快楽」に変容させたことによる劇薬の芳香を存分に嗅ぐに至った。

しかし、「楽園」からの失墜を認知した事態が惹起させた感情は、「剥奪された日常性」によって「地に繋がれた囚人」への決定的「逆送」を意味するのだ。

しかも「楽園」への脱出願望の夢を、束の間味わう快感を手に入れてしまったために、そこに自己投入した思いの一切が砕かれる衝撃を受けるのである。

その衝撃は、今まで以上に、「剥奪された日常性」によって「地に繋がれた囚人」の意識を累加させる事態であった。

「不幸の免疫力」を持つ「少女」は、自分を拒絶した男に手紙を書く。

「少女」の中で、「楽園」への脱出願望は放棄されていないのだ。

その手紙は、映像を通して、唯一「少女」が、自分の心情を切々と吐露したものである。

自分の心情を吐露した、「少女」に対する男からの反応は、小切手付きの酷薄な一言。

アキ・カウリスマキ監督
金銭によって縛られた「少女」は、金銭によって、一夜の関係を処理しようとする男を断じて許せなかった。

男に対する「少女」の憎悪が、極点に達した瞬間だった。

「少女」は男を殺し、その帰りに立ち寄ったスナックで、自分に言い寄る別の男に対しても殺鼠剤を注入した。

それは、「少女」が、束の間愛した男の振舞いと同質の行為だったからである。

「少女」は、「究極の失恋」を過剰学習してしまったのだ。

更に、二人の男を殺した「少女」は、自分を「囚人生活」に陥れたルーツへの憎悪を掻き立てるに至る。

「少女」の自我に「不幸の免疫力」を作り出した両親をこそ、この世から抹殺する以外になかった。

そのことによって、自由を奪われた「少女」は、死刑制度のない国での、塀の中の生活に身を投げ入れることを選択したのである。

塀の中の生活の方が、「少女」にとって、それまでの不幸の内実に比べれば、「搾取」がない分だけマシということだったのか。

アキ・カウリスマキ監督
「語り」を削り取った映像は、一切答えない。

それでいいのだ。

観る者の個々の把握の独自性こそ、「境界」を壊す自在なる「文化装置」としての映像の生命であるに違いない。

そこで、私の感懐。

「作家性」の顕著な、この映像の本質は、「社交辞令」に象徴される、人間同士の「語り」を削り取ってしまえば、そこに「愛」、「友情」、「平和」、「思いやり」等々といった幻想から、良かれ悪しかれ解放されるだろう。

その結果、包括力と柔和感に乏しい、ぎすぎすした人間社会の裸形の冷厳な現実が露わになることで、私たちの社会の欺瞞性溢れる「文化システム」の様態を浮き彫りにさせたのである。

そう思わざるを得ない程に、凄みのある映像だった。

(2010年12月)

0 件のコメント: