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2011年3月8日火曜日

それでもボクはやってない('07)       周防正行


<警察・検察・司法の構造的瑕疵への根源的な問題提示>



1  警察・検察・司法の構造的瑕疵を根源的に問題提示した、秀逸な社会派の一篇



本作は、人に言えないほどの辛い経験の混乱の中で、相当程度、曖昧となった少女の記憶が、刑事の情報誘導によって補完されることで、矛盾なく固まったと信じる主観の稜線上に、特定化された「犯罪者」を作り出し、少女の辛さを越えるほどの心理状況に捕縛された、件の「犯罪者」の内面的揺動のプロセスを通して、この国が内包する警察・検察・司法の構造的瑕疵を炙り出し、それを社会派作家として立ち上げた強烈な使命感のうちに剔抉(てっけつ)した秀逸な一篇である。

人に言えないほどの辛い経験とは、満員電車の中での女性たちが蒙る、痴漢というリスキーな状況の中で、その被害に遭ったときの「心的外傷」経験。

とりわけ、本作の女子中学生のような弱い立場に置かれた者が蒙る精神的被害の大きさは、それに遭遇した者でなければ分らない恐怖を随伴するものであるだろう。

証人の苦痛を累加させる、「セカンドレイプ」という由々しき問題が横臥(おうが)するからである。

今では、ビデオリンク方式(法廷外の場所で証人にビデオ証言)という尋問方法を採用するのが一般的。

それほどに、痴漢被害に遭遇した自我のダメージが甚大であるということだ。

そのことは、本作の「痴漢冤罪」の被害者となった、主人公の弁護を引き受けることに躊躇したときの、女性弁護士(但し、彼女の過剰な演技がリアリティを削っていた)の拒絶反応のシーンに象徴されるものだった。

それは、電車に乗れなくなるという恐怖感を随伴するケースを惹起させ得る、痴漢被害を含む性暴力被害によるPTSDの問題を、まず抑えておくことの重要性であると言っていい。

映像は、第一の被害者である女子中学生の証言シーンをきちんと描き切っていた。

何より、そこがいい。

パーテーション(間仕切り)によって区切られた小さなスポットで、「法律を熟知する大人」たちに囲繞された中で、宣誓させられた挙句、虚偽の証言にはペナルティーを科せられる事実を告知されるのだ。

許容範囲を超える緊張感が、少女の自我を呪縛していたに違いない。

パーテーション内での被害女子中学生と、荒川弁護士
その辺りを描いた点は、最も高く評価し得るものの一つである。

そして、それと同様に重大な問題は、この国が内包する警察・検察・司法の構造的瑕疵である。

それは、「推定無罪」という概念に象徴される刑事司法の根本原則の形骸化であると言える。

本作の作り手は、その問題意識によって、このような厄介な社会的テーマを映像化することに踏み切ったことを、各種インタビュー等で吐露している。

「推定無罪」という刑事司法の根本原則については、冒頭で刻まれた、「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」というキャプションや、本作の中の、以下の会話の中で拾われていた。

この「痴漢冤罪」事件を担当した一審裁判官と、刑事裁判を傍聴する司法修習生たちとの会話である。

「刑事裁判の最大の使命は何だと思いますか?」と一審裁判官。
「真実を見極めること」と司法修習生。
「公平であること」と女性司法修習生。
「公平らしさ」と別の司法修習生。

このとき、一審裁判官は確信的に言い切ったのである。

「最大の使命は、無実の人を罰してはならない、ということです」

この言葉の中に、本作の基幹テーマが集約されている。

本作は、「最大の使命は、無実の人を罰してはならない」という刑事司法の根本原則が、「推定有罪」に振れやすくなっている、警察・検察・司法の構造的瑕疵を根源的に問題提示した、秀逸な社会派の一篇である。



2  「人質司法」という名の状況圧の中で



自白するまで拘留する、「人質司法」という言葉で揶揄(やゆ)されている、人権無視の捜査手法が、映像は端(はな)から描き出していく。

さながら、ドキュメンタリー映画のように、映像は、この「人質司法」の恐怖の実態をリアルに再現していくのだ。

地方自治体の「迷惑防止条例」(注)に抵触する、痴漢行為によって逮捕された青年の名は、金子徹平(以下、「徹平」)。

本作の主人公である。

以下、その徹平が、警察の留置所で、「当番弁護士」(家族などが弁護士会に依頼すれば、初回の接見を無料で実施してくれる弁護士)と接見したときの会話。

「本当にやってないんだ」と徹平。

この徹平の訴えに対する、「当番弁護士」の長広舌の反応は冷ややかであるが、現実的な内実を存分に含むものだった。

以下、些か長いが、その言説を再現してみる。

「裁判は大変なんだ。はっきり言うけど、この種の軽微な事件でも、否認していれば留置所暮らしだ。裁判にでもなれば、被害者証言になるまで、下手をすれば、3ヶ月くらい出て来れない。僕は半年拘留されていた人を知っている。当時、認めれば、罰金5万円の事件だった。その上、裁判に勝てる保証は何もない。有罪率が99.9%。1000件に1件しか無罪はない。示談で済むような痴漢事件で、正直、裁判を闘っても、良いことなんか何もない。勿論、弁護士として、やってもいない事件を認めろと勧めることはできない。でも、これが日本の現状だ。認めて示談にすれば誰にも知られず、明日か明後日にはここを出られる。いいかい。このまま否認していれば、3週間はここで取り調べを受ける。それで、起訴されれば裁判だ。無罪を争えば、1年はかかる。その上、本当に無実でも、無罪になる保証はない。今、認めて示談にすれば、それでお終いだ・・・示談するなら、すぐお金がいる。誰か身内でお金を用意してくれる人はいるかな?」

いきなりの先制パンチだった。

しかし、「人質司法」という言葉は疎(おろ)か、刑事司法に疎い徹平にとって、「当番弁護士」のレクチャーは、無気力な「軒弁」(軒先を借りる弁護士)の如き処世術の押し付けにしか聞こえなかったであろう。

「・・・やってないんだ」と徹平。
「・・・そうだね。悪かった。だけど、裁判は大変だ。多分、君には想像できないほど・・・」

必ずしも過誤とは言えないだろう、この「当番弁護士」の「泣き寝入りの勧め」が、未知のゾーンに送り込まれた徹平の自我を呪縛し、自分の真実の訴えを聞いてもらえない状況圧の中で、「泣き寝入り」せざるを得ないような流れ方で事態が展開することで、絶望感を深めていくのである。

それでも、「有罪」を拒絶し切った男のギリギリの闘いのうちで、自我を極限的に追い詰めて、自己像崩壊に至らなかったことの奇跡譚が、公判を通して開かれていくが、ここでは、「人質司法」の状況圧に甚振(いたぶ)られていった果てに、「虚偽自白」に追い込まれる心理について言及していこう。

以下、「『脆弱性』―― 心の風景の深奥 或いは、『虚偽自白』の心理学」という拙稿の中から、そのような状況に置かれた被疑者の心理の振れ方について引用してみる。

それは、「精神的孤立感」という言葉に収斂される何かである。

取調室(イメージ画像・ブログより)
取調室の澱んだ空気に囲繞されて、自分と正対する屈強な男が吐き出す言葉の連射は一貫して暴力的であり、自分以外に犯人がいないと断定する口調は、時の経過と共に激越になり、攻撃性を増強させていくばかりである。

取り調べの時間が間断なく継続されていく感覚すら鈍麻し、無実を訴える自分の弱々しいアピールは絶え絶えになり、全く先の見えない暴力的な展開の恐怖のみが記憶の表層に張り付き、自分の心と体を隙間なく包括する異様な空間を仕切ってしまっているのだ。

こんなリスキーな内的状況が、何時間続いたであろうか。

夜になっても食欲が破壊され、全人格的に疲弊し切っている自我が震えている。


そこに形成されたブルーのスポットは、まさに外界から遮断された、出口の見えない「箱庭」だった。


その「箱庭」の中に成立した関係性の本質は、「権力関係」と呼ぶ以外にない爛(ただ)れ切った様態である。

捜査員という名の、筋骨隆々の男たちとの間で形成された「権力関係」が、時間の虚しい経過と共に、いよいよ露わな暴力性を剥き出しにしてきたとき、寄る辺なき自我は少しずつ、卑小な存在性の脆弱さの被膜を剥(は)いでいくのだ。

心身ともに激しい疲労感が突き上げてきて、もう絶え絶えの自我は千切れかかっている。

「早く楽になりたい」―― そんな思いが意識の領野を隅々まで支配してきて、何か得体の知れない異界の時間に誘(いざな)われていくようだった。

23日間に及ぶ、このような拘留状態下の状況圧の中に、本作の主人公である青年の自我は捕捉されていたのである。


(注)因みに、東京都迷惑防止条例では、8条1項において、「6月以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する」という条文になっている。



3  「それでも僕はやってない」 ―― 控訴審に向けて新たな決意を抱懐するモノローグ



「認めて示談にすれば誰にも知られず、明日か明後日にはここを出られる」という選択肢に身を委ねるか、それとも、「このまま否認していれば、3週間はここで取り調べを受ける。それで、起訴されれば裁判だ。無罪を争えば、1年はかかる。その上、本当に無実でも、無罪になる保証はない」という選択肢に身を委ねるか、2つに1つの「究極の選択」の中で、徹平が選択したのは、「無実でも、無罪になる保証はない」という後者だった。

しかし意を決して、一審の公判に身を委ねた徹平が、そこで視認し、経験した世界は、司法の番人であるはずの裁判官の、「事件」に対峙するときの信じ難い事務的処理の、その「感覚鈍磨」した現実だった。

荒川弁護士(左)
司法の番人である裁判官が、本来的に向き合わなければならない、被告に対する「感覚鈍磨」の現実については、徹平の担当弁護士である荒川の言葉の中で説明されていた。

「裁判官はね、常時200件以上の事件を受け持っている。その殆どが罪を認めている事件で、明らかに有罪ばかりだ。そう考えれば、確かに悪い奴ばかりを裁く場所かも知れない。その中で被告人の声を真摯に聞くことは容易ではない。こうやって多くの事件を裁かないと、勤務評定に関わる。裁判官の能力は処理件数で図られるんだ。早く終わらせることばかり考える」

一審の公判中、保釈された徹平を含む支持者に、荒川弁護士はそう語ったのである。

「こちらが積極的に無罪を立証できないと負ける。それだけ覚悟が必要です」

荒川弁護士は、そう言い添えることも忘れなかったのである。

また、こんなシーンもあった。

一審の裁判官が変わった理由を、その前に二度無罪判決を出して、控訴審で覆されているという経緯があって、左遷させられたのではないかと説明するシーンである。

それを説明する者は、裁判の熱心な傍聴人の言葉。

以下の通り。

「無罪を出すということは、警察と検察を否定することです。つまり、国家に盾を突くことですよ。そしたら出世はできません。所詮、裁判所も官僚組織ですから、組織の中で評価されたいというのが人情でしょう・・・とにかく、無罪判決を書くには、大変な勇気の能力がいるんです」

このように、多くの説明的なエピソードの挿入が、必ずしも映像構成力を劣化させなかったのは、それが本作のパワフルな主題提起力を補完する役割を果たしていたからである。

そして、このようなエピソード挿入による展開を経た末に、一審での判決が言い渡された。

実際の現場状況の再現ビデオの作成など、様々な努力の甲斐もなく、一審での判決が執行猶予付きの有罪となって、直ちに弁護側は控訴した。

ラストシーン。

判決主文の朗読を、凛とした立ち姿で聞く徹平が、そこにいた。

以下、控訴審に向けて新たな決意を抱懐する、徹平のモノローグ。

「僕は、心のどこかで、裁判官なら分ってくれると信じていた。どれだけ裁判が厳しいものだと自分に言い聞かせていても、本当にやっていないのだから、有罪になるはずがない。そう思っていた。真実は神のみぞ知る、と言った裁判官がいるそうだが、それは違う。少なくとも僕は、自分が犯人ではないということを知っている。ならば、この裁判で本当に裁くことができる人間は、僕しかいない。少なくとも、僕は裁判官を裁くことができる。あなたは間違いを犯した。僕は無実なのだから。僕は初めて理解した。裁判は真実を明らかにする場所ではない。裁判は、被告人が有罪であるか無罪であるかを、集められた証拠で、取り敢えず判断する場所に過ぎないのだ。そして僕は、取り敢えず有罪になった。それが裁判所の判断だ。それでも、それでも僕はやってない」



4  「脆弱なる被疑者」が「闘う被告」として成長してく物語、或いは、相対化していく視座



本作は、極めて訴求力の高い映像である。

周防正行監督
周防正行監督の入念なリサーチの「営業努力」の甲斐あって、明瞭でパワフルな主題提起力を、余分なものを削り取ったフィルムに、最も肝心な描写を繋ぐ、テンポのいい映像構成力が本作を堅固に支え切っていたからである。

前述したように、本作で提起された主題は、警察・検察・司法という権力が内包する看過し難い瑕疵を抉(えぐ)っているが、しかし、決して「権力=絶対悪」という類型的で、イデオロギッシュな視座によって一刀両断している訳ではない。

そのことは、痴漢冤罪事件の被告である佐田と、荒川弁護士との以下の会話からも読み取れる。

「無実の罪で、それも初めての裁判で、たった一度の被告人質問で、幾ら弁護士さんと打ち合わせをしていても、答え方次第で有罪になってしまう。やり直しなしの一発勝負です。あったことをありのまま答えれば良いという弁護士もいますけれど、極度の緊張状態で予想外の質問が来たらもう、頭真っ白です。ありのままが何だったかすら分らなくなってしまう」

この、痴漢冤罪事件の被告である佐田の言葉を受けて、弁護士費用を不問に付すかのような、「弁護士の鑑」の如き荒川弁護士が語ったのは、裁判官が置かれている心理的風景だった。

「裁判官に悪意があるとは思わない。毎日毎日嘘つきにあい、人の物を盗んではいけません、人を傷つけてはいけません、時には、人気歌手の歌を引用して説教もする。その繰り返しだ。怖いのは、99.9%の有罪率が、裁判の結果ではなく、前提になってしまうことです」

「99.9%の有罪率が、裁判の結果ではなく、前提になってしまうこと」の怖さこそ、本作で提起された主題に関わる、周防正行監督の最も重要な警鐘であったに違いない。

更に、映像冒頭で、「痴漢冤罪」の被害者とは無縁な男の、常習的な狡猾さを露呈するシーンの挿入は、刑事たちの置かれた粗悪な環境を説明する説得力を持っていた。

まさに、「毎日毎日嘘つきにあう」裁判官の心理的風景と同様に、「痴漢冤罪」の証明の艱難(かんなん)さの一端が読み取れるに足る均衡感を保持していたと言えるだろう。

それでも、このように不幸な事態が出来したとき、運悪く、「被疑者→被告」となった者が蒙る厖大な精神的・社会的リスクについて、そこだけは看過し難い鮮烈な問題意識として、この作り手は包括的に把握し、それを見事に映像化することに成就した。

「痴漢冤罪は悪魔の証明」という言葉に象徴されているように、痴漢被害の永遠の被害者である女性たちが蒙る精神的・社会的リスクによって相対化されるとき、その被害女性による特定他者への告発の重量感は、明らかに、「推定有罪」に流れていく構造性を持ちやすいことをも示しているのである。

そのとき、「被害女性の特定他者への告発=善」⇔「告発された特定他者=悪」という基本構図が、「あるべき人権の様態」として不動のパワーを持ち得てしまうこと ―― それが、本作の物語を通して、観る者に痛切に伝わってくるのである。

一貫して、映像は声高にならず、説明的な台詞の多さが不可避であることを認知し得るだけに、法廷シーンに観られるように、論理と論理のコンフリクトが積み上げられていって、感傷に流れることのない論理的構築力の重要性をも教えてくれる映像であった。

この場合、被告とその弁護側が、「痴漢冤罪」を立証するための論理的構築の困難さが嫌というほど描かれていて、まさに、「痴漢冤罪」を立証する立場にある者が負うリスクの大きさを感受させるものだった。

本作の中で最も印象深いのは、被告弁護側が再現実験を遂行し、それをビデオに収め、証拠資料として法廷に提示するまでのプロセスである。

彼らはその作業を通じで、単に頭だけで考えた論理の組み立てが、如何に観念的なものであるかを悟るに至るのだ。

被告自身も、件の再現実験の中で、改めて空白になっていた記憶を蘇生させていく。

同時に被告は、「痴漢した手」を後ろに抜いたという、被害少女の証言の誤りを立証することで、論理的検証作業という知的過程の重要性を確認し、「闘う被告」として成長していく姿を表現してみせた。

それが、ラストシーンにおいて、裁判官に堂々と屹立する、凛とした立ち姿に表現されていたのである。

この物語は、「脆弱なる被疑者」が「闘う被告」として成長してく物語でもあったのだ。

―― 本稿の最後に、これだけは書いておこう。

「この映画は刑事裁判の問題を痴漢を題材にして描いている。では痴漢だと言われたらどうすればいいんだろうか。名刺を渡して逃げる、その場で鑑識警察官を呼ぶという意見がある。警視庁幹部に聞いたところ、大きな駅では毎朝5、6人は『痴漢』で駅事務所に連行されるから、いちいち鑑識などできないという。ならばどうすればいいのか。その場で弁護士を呼ぶことしか思い浮かばない。嫌な時代になったものだ」(酔醒漫録)

有田芳生
以上の一文は、有田芳生(2011年3月現在 民主党参議院議員)が、自分のブログで、本作の感懐を寄せていたもの。

気になるのは、彼に限らず、「嫌な時代になったものだ」という類のレビューがあまりに多いこと。

確かに、有田の言う通りだろう。

しかし、「嫌な時代になったものだ」と有田に言わしめる社会的背景を考えるとき、そこには、本作で描かれた、「痴漢冤罪」の顕著な増加という現実が存在するということだ。

思うに、「痴漢冤罪」の顕著な増加という現実が常態化しているということは、逆に言えば、近年、47都道府県で制定・施行されている、「迷惑防止条例」のカテゴリーに入れられていることでも分るように、世俗文化の中で、微罪として印象付けられてきた、痴漢という歴とした「犯罪行為」に対する把握が、重大な人権侵害として決定的に変容してきた経緯と脈絡を持つことを否定し難いのである。

例えば、それが「痴漢冤罪」であったという事実を斟酌しない限りにおいて、本作の女子中学生の勇気ある行為は、昔なら、対象人格への告発を身体化する行程を開くことなく、殆ど、「泣き寝入り」の現実を常態化してきたはずである。

それ故に、私権の拡大的定着による人権感覚の強化が現象化してきた事実こそ、由々しき出来事であると言って良いのではないか。

本作で指弾されたように、この国の警察・検察・司法の構造的瑕疵には相当程度、看過し難い問題を残しているが、しかし、そのような「腐敗した現実」が露わにされるようになった事態を含めて、必ずしも私たちは、「嫌な時代になったものだ」と安直に嘆いてばかりいても、決して生産的な思考であるとは思えないのである。

私たちには、様々に絡み合った負性的状況や、そこに関わる自己自身を、より以上に相対化していく視座が必要なのである。

そう思わざるを得ないのだ。

(2011年3月)

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