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2011年10月31日月曜日

秋刀魚の味('62)      小津安二郎


<成瀬的残酷さに近い、マイナースケールの陰翳を映し出した遺作の深い余情>



1  「小津的映画空間」を閉じるに相応しい残像を引き摺って



死を極点にする「非日常」を包括する「日常性」を、様式美の極致とも言える極端な形式主義によって、そこもまた、根深い「相克」や、「祭り」の「喧騒」、「狂気」を内包する「騒擾」を削り取ることで、永久(とわ)に続くと信じるこの国の、「穏和」と「ユーモア」が溶融する、極めてミニマムな「映像宇宙」の中に、パーソナル・エリアを最近接した者たちと、「日常性」という「安寧の時間」を「共有」してもなお生き残される、「絶対孤独」という「無常感」の「儚さ」。

この「儚さ」を、様式化された「構図」の中に詰め込んで、それを破壊しないレベルで、そこはかとなく漂う心象風景を特定的に切り取った「映像宇宙」 ―― それが、「小津的映画空間」である。

小津安二郎監督にとって、この「映画空間」を具現するに相応しいジャンルこそ「ホームドラマ」であった。

そこで表現される「ホームドラマ」のミニマムな世界で、小津監督は、映画作家として様々な試行の果てに培って、そこで到達したと信じる一切を自己投入していったのである。

しかし、小津監督の構築した「ホームドラマ」が普遍性を獲得するには、「時代」との相応の睦みが保証されていなければならなかった。


この「時代」との睦みが保証されるには、小津監督が欲したであろう、この国の「古き、善き原風景」の生命力が決して安楽死しないと信じられる、絶対規範とも呼ぶべき何かが必要だった。(画像は小津安二郎監督)

ところが、「時代」の目まぐるしい変遷は、小津監督の欲したイメージを遥かに超えていた。

本作の中で、長男の幸一夫婦の会話が、時代を映す鏡のように描かれていたことが印象深い。

ゴルフクラブを購入したい夫と、それを贅沢と詰(なじ)る妻もまた、自分の消費欲求を口に出すシーンである。

このシーンに象徴されているように、目眩(めくるめ)く変容を遂げていく時代は、「より豊かに、より快楽に溢れた文化」を作り出してしまったのである。

それが、東京オリンピック(1964年製作)の開催を間近に控えた、この国の大衆社会の不可避な自己運動であったからだ。

「晩春」(1949年製作)と殆どテーマを同じにする、この遺作の時代背景には、「晩春」が作られた時代よりも、「三種の神器」に象徴される高度経済成長という、大衆消費文明の自己運動が遥かに剥き出しになっていて、小津監督が構築した「ホームドラマ」のイメージの理念系を置き去りにする尖りが内包されていたのである。


だから、白無垢の嫁入り衣裳のカットを挿入した、この遺作で語られる主人公の孤独の境地には、「晩春」での父娘の、インセストの如き「睦みの美学」を、呆気なく壊すに足るような「置き去り感」が張り付いていた。

この時期、図らずも、最愛の実母を喪ったトラウマが、小津監督の胸裏を必要以上に騒がせていたか否かについては不分明である。

然るに、詳細は後述するが、哀感の極みのようなラストカットの「無常感」は、「小津的映画空間」を閉じるに相応しい残像を引き摺っていたことだけは否定し難いのだ。



2  「小津ルール」の縛りを解いて、没個性のボトルネックを突き抜けていく「全身表現者」の面目躍如



3度目の遺作の鑑賞であったが、最後まで馴染めなかった「小津ルール」。

全く違和感がない「ローポジション」の問題は例外として、「相似形の構図」や「イマジナリーラインの無視」程度のルールなら我慢できるが、野田高梧との共同脚本による、執拗な「台詞の反復」と「表情を殺した演技」だけは、何度観ても、どうしても馴染めないのである。

「使ってるわよ、使ってるじゃない」、「よしちゃえ、よしちゃえ」(必ず、使用される台詞で、私は「ちゃえちゃえ語」と呼んでいる)、「煩い、煩い」、「ダメ、ダメ」、「そうかな、そうかな」、「買うわよ、本当に買っちゃうから」、「いいの、今のままでいいの」、「いいですよ。あの男ならいいですよ」、「言いました。言ったよ」、「いいの。そんならいいの」等々。

「台詞の反復」のほんの一例である。

様式美の極致とも言える、極端な形式主義によって成る「小津的映画空間」の表現技巧は、小津監督のイメージの中にのみ根を張っている映像宇宙の律動感と、それを具象化した構図こそが、俳優の演技よりも遥かに決定的な「美学」の検証であるが故に、観る者の受容感度の是非が、「評価」や「好悪」の基準を決めることになるだろう。

それでいいと確信する巨匠の、アーチストとしての拘泥は、小津組の出演俳優ばかりか、観る者の受容感度の「適正化」をも暗に求めて止まない、「自信満々居士」の臭気を放つ「厄介」なる何ものかであったのか。


かくて、軽演劇で鍛えたハイテンポで、アドリブ自在な森繁久彌の演技は、ただ一回の出演でダメ出しをされ(「小早川家の秋」)、小津組の助手を経験した今村昌平(画像)に至っては、「生きている人間の有りよう」を感受させない不満が昂じて、小津組との縁を切った。

両者共に、「譲れないもの」を持つ「表現者」だったのだ。

俳優の個性を敢えて破壊する演出によって構築したと信じる、「小津的映画空間」の信奉者か、或いは、「絶対者」としての「映画監督」との間で形成された、「権力関係」への背馳(はいち)を恐れる「従順」な「常連俳優」のみが、今や、「世界的名匠」という高みまで上り詰めたアーチストを囲繞していったようにも見える。

「常連俳優」には、「表現」が堅固に統一された世界への自己投入を躊躇(ためら)うはずがなかったのか。

相互の会話の「間」を、反復的な台詞で埋められてしまうから、いつでもそこに、力動感に欠ける「堅苦しい表情」だけが生き残されるのである。

それが、小津監督の把握の中では、「自然な演技」という範疇に収斂される「表現」だったのか。

はっきり書くが、本作で最も重要な役柄(長女の路子)を演じた岩下志麻の「眼」は、映像前半において死んでしまっているのだ。


岩下志麻の「眼」の死が、嫁入りする際の、眩い輝きを強調するための計算された演出とは思えないのは、私の中の「厄介」な疑心暗鬼の視線が反応してしまうからで、図らずも、そんな狭隘なるマインドセットが蠢(うごめ)いてしまって、そこだけは偏見居士と化した者の如く、何とも浄化し切れない違和感が反応してしまうのである。

新人女優には、どだい、「小津ルール」の縛りの中で、「生きた眼」を表現することなど無理な要求というものであるが、それを含めて、包括的に「オンリーワン」に固執する態度を一貫した作家性に脱帽する他にないとも言えるのか。

加東大介、杉村春子、東野英治郎、中村伸郎などのように、全身で演技を表現し切る「全身表現者」のみが、「小津ルール」の縛りを解いて、没個性のボトルネックを突き抜けていくのだろう。

例えば、こういう会話があった。

「軍艦マーチ」を耳にしながら、飲み屋で、主人公の周平と、周平の海軍時代の部下であった坂本との会話である。


坂本を演じる加東大介の、「全身表現者」としての面目躍如たる演技が眩く輝いていて、周平を演じた笠智衆の抑えた演技をも呑み込んでいた。

「ねえ、艦長。どうして日本負けたんすかね」と坂本。
「ううん、ねえ・・・」と周平。
「お陰で、苦労しやしたよ。帰って見ると、家は焼けているし、喰い物はねえし、それに物価はどんどん上がりやがるしね。・・・そこへいくと艦長なんか、何にもご苦労なかったでしょうけどね」
「いやいや、私も苦労しましたよ」
「でも艦長。これでもし、日本が勝っていたら、どうなったんすかね」
「さあねえ・・・」
「勝ったら艦長。今頃、あなたも私もニューヨークだよ。パチンコ屋じゃありませんよ」
「そうかね」
「そうですよ。負けたからこそね、今の若(わけ)え奴ら、向こうの真似しやがって、レコードかけて、ケツ振って踊ってますけどね、これが勝っててごらんなさい。目玉の青い奴が丸髷(まるまげ)なんか結っちゃって、チューインガム噛み噛み、三味線弾いてますよ。ざまあみろってんだ」
「けど、負けて良かったじゃないか」
「そうですかねえ。ううん、そうかも知れねえな。バカな野郎が威張らなくなっただけでもね」

明らかに、アジア太平洋戦争への批判を込めた、とても生き生きした素晴らしい会話である。


それは同時に、「小津的映画空間」に背馳せず、そこに上手に溶融し得た「全身表現者」のみが、「小津ルール」の縛りを解いて、没個性のボトルネックを突き抜けていくという典型例でもあった。



3  小さい嗚咽を洩らす老人の後ろ姿を映し出した、ラストカットの哀感



「寂しいんじゃ、哀しいよ。結局、人生は一人ぽっちですわ。わたしゃ、失敗した。つい、便利に使(つこ)うてしもうた。娘をねえ、つい便利に使(つこ)うてしもうて、嫁の口もないじゃなかったが、なんせ、家内がおらんのでねえ。失敗しました。つい、やりそびれた」

これは、かつて「ヒョータン」と揶揄(やゆ)された、中学時代の恩師である佐久間の言葉。

クラス会での宴席で、箸置きの下にあった現金入りの紙袋の礼に、かつての生徒たちと、再び宴席を設けたときのことだ。

中学校教諭を定年退職し、今はラーメン屋を営んでいるが、妻を亡くしたため、一人娘を家政婦兼従業員代りに育ててしまったことを、佐久間は悔いているのだ。

婚期を逃し、娘を「行かず後家」にしてしまった責任を、教え子との宴席の場で吐露する中学時代の恩師の嘆きを、直截(ちょくさい)に受け止める周平。

周平もまた、佐久間が置かれた状況と変わらない心的風景をなぞっているのである。

「寂しいんじゃ、哀しいよ。結局、人生は一人ぽっちですわ」

佐久間の吐露には、それを経験した者でなければ分らない哀感が深々と滲み出ていて、そこだけは、周平の情感に喰い刺さっていったのである。

「娘の嫁入り」という、「日常性」と地続きにある人生の大きな節目を目の当たりにして、揺れ動く父親の心境もまた、回避できない宿題を突き付けられた者の、名状し難い寂寞感を晒すのだ。

それ以前のカットにおいて、一人でラーメン屋の店の片隅に佇む佐久間の姿が、ローアングルのフィックスで撮られていたが、「人生は一人ぽっち」という老境の哀感漂う名場面だった。

この構図が、娘の路子を嫁入りさせた周平の老境を、いつものように丁寧に描くラストシーンの伏線となっていて、観る者に、否が応でも感情移入させる静謐(せいひつ)な絵画的空間を作り出していくのである。

その有名なラストシーン。

「俺も寝ちゃったぞ。明日、また早いんだぞ。俺がめし炊いてやるから」


路子を嫁入りさせた父の孤独の心境を案じる次男が、一人で台所にいて、酔っている父に声をかけるのだ。


「ん、やあ、一人ぽっちか・・・」


そう言って、軍歌を歌いい始めるが、途中で止め、一人でやかんの水を汲んで、音もなく飲む周平。

小さい嗚咽を洩らす老人の後ろ姿を映し出したラストカットの括りは、実に見事な閉じ方だったという他にない。


返す返す思うに、余情を残すラストカットで閉じる本作は、老境にある者にとって、何より大切なのが、「生きがい」というよりも、「居がい」であり、「居場所」の問題であることを示唆した映画でもあった。

以上、縷々(るる)、批判的な一文をも添えたが、それもまた、「小津的映画空間」への部分的だが、私にとっては看過し難い馴染みにくさ故のものであって、その思いも含めて、「小津映画」を包括的に理解した上で受容するというスタンスだけは変えるつもりはない。

だから私は、「好みの問題」で片づけることにしているが、明らかにテーマを処理できずに失敗した「風の中の牝どり」(1948)と、高峰秀子の本来の個性を全く生かし切れなかった「宗方姉妹」(1950)に関しては、とうてい許容し得る映画ではなかったことだけは言い添えておこう。

以上の言及に沿った、「小津的映画空間」に対する、私なりの正直な感懐を添えることで、以下、本稿を閣筆(かくひつ)したい。



4  成瀬的残酷さに近いマイナースケールの陰翳を映し出した遺作の深い余情



単に、その時代に生きる「中流階層」の人々の、淡々とした「日常性」を描いただけなのに、ここまで「美しい日本の、美しい心の風景」を、「そこだけは捨ててはならない堅固な信念」のうちに、特定的に拾い上げる執着心を理解し得るとしても、「人間の、或いは、日本人の醜悪な様態」が、まるでどこにも存在しないもののように描かれること、即ち、「冷厳なリアリズム」を擯斥(ひんせき)してしまう「小津的映画空間」に、恐らく、今村昌平もそうであったと同様の文脈において、私もまた全く馴染めないのである。

それにも関わらず、本作に対する私の感懐には、それまでのような、「美しい日本の、美しい心の風景」への拘泥が希釈化されている印象を拭えないのだ。

それは、昔の教え子に対する中学時代の恩師である佐久間の、何か封印し切れない卑屈さと、その恩師に対する昔の教え子たちの態度の軽侮の念が、そこもまた、封印し切れない露骨さの中で表現され過ぎていた点に集約されるだろう。

こんな残酷な描写を、小津監督は映像化したのである。

それは断じて、小津流のユーモアの範疇で収斂されない描写だった。

まるで、私の最も愛好する成瀬映画を観るようでもあった。

成瀬的残酷さを包括する老境の孤独の様態のイメージが、そこにべったりと張り付いていたのだ。

それ故に、佐久間の人物造形の意味が際立ったのである。


佐久間
老境の孤独を、これほど感じさせるキャラクターであったからこそ、ラストシーンでの周平の老境の孤独が深い余情を醸し出したのだ。

或いは、本作こそ、「小津映画」の最高到達点ではないのかと思わせる何かが、そこに凝縮されていたのである。

思えば、周平の老境の孤独と言っても、近隣のアパートに住む長男夫婦がいて、未だ我が家には次男が同居しているのだ。

このような家族の形態は、今、「インビジブル・ファミリー」と呼称されている。

既に成人化した子供たちが近隣に住んでいて、精神面という幹の部分で支え合っている、このような家族は「擬似同居家族」とも呼ばれているそうだ。

よくよく考えてみれば、本作の主人公である周平にとって、我が家をほんの少し空洞化させしめたのは、単に、長女を嫁入りさせたに過ぎないのである。

それにも関わらず、思いの外、深い余情を残すラストカットの風景の孤独感を醸し出すのは、目眩(めくるめ)く変容を遂げていく時代に置き去りにされるイメージを張り付けているからだろう。

「女性の社会進出」に対する違和感が相対的に希釈化されていった時代状況下にあって、娘を「我が家」に拘束したことを悔いる男の悲哀が、ユーモア含みの本作の基調音を、成瀬的残酷さに近いマイナースケール(短音階)の陰翳を映し出してしまったのだ。

「晩春」より
あっさりと嫁に行き、それをあっさりと、「擬似同居家族」が認知する。

明らかに、「晩春」の、ネチネチした父娘の睦みの深さと分れているのだ。

だからこそと言うべきか、私にとって、本作は印象深い一篇となったのだろう。

そう思わせる遺作だった。

敢えて補足すれば、その「小津的映画空間」のうちに一片の「欺瞞性」を感受させないのは、そこに、確固たる「小津的映画空間」の独自の映画文法が堂々と屹立しているからであろう。

だから、決して唾棄すべき映画作家ではないということ。

それだけは紛れもない事実である。

(2011年11月)

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