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2011年10月17日月曜日

お引越し('93)      相米慎二


<他律的な児童期自我から自律的な思春期自我への「お引越し」の物語>



1  「変化への恐れ」、「愛着感の喪失」、そして「親達の間の敵意」というリスクに搦め捕られた少女



極めて情緒的な映像に仕上がっている本作は、思春期前期にある12歳の少女が、両親の別居・離婚という「非日常」の状況下で、未だ幼い自我が蒙る複雑で様々な不安感情を自分なりに浄化させ、解決していくことによって、ラストカットに繋がる「セーラー服を着た中学生」に象徴される「自立」するプロセスを描き切った秀作である。

思春期前期にある12歳の少女が、それまで拠って立っていた自我の安寧の基盤である、「幸福家族の物語」に破綻が生じたとき、少女の「日常性」は加速的に安定感を失っていく。

本来、「日常性」とは、その存在なしに成立し得ない、衣食住という人間の生存と社会の恒常的な安定の維持をベースにする生活過程である。

恒常的な安定の維持をベースにする生活過程であるが故に、「日常性」には、それを形成していくに足る一定のサイクルを持つ。

その「日常性のサイクル」は、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つというのが、私の仮説であるが、しかし実際のところ、「日常性のサイクル」は、常にこのように推移しないのだ。

恒常的な「安定」の確保が、絶対的に保証されていないからである。

逆に言えば、「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られるリスクを宿命的に負っているからでもある。

もし、この「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦め捕られた主体が、思春期前期にある12歳の少女であって、「非日常」の内実が両親の別居・離婚という由々しき事態であったなら、そこに生じる「非日常」の様態が、未だ「親」の管理を脱して形成され得ない、非自立的な一次的自我に与える負の影響力は看過し難いだろう。

中央がレンコ
鋭角的な三角形のテーブルが巧みに象徴しているように、両親の別居・離婚という由々しき事態によって、少女の自我が蒙るストレスは、或いは、少女のその後の人生に決定的な負荷になるかも知れないのだ。

因みに、児童発達論を専攻する米のカレン・デボード博士によると、「離婚によって子供にストレスを引き起こす原因」は、「変化への恐れ」、「愛着感の喪失」、「見捨てられ不安」、「親達の間の敵意」の4点を指摘している(「子どもに注目:離婚が子どもに与える影響」堀尾英範訳)。

本作において、少女が蒙ったストレスの中で、最も重大な課題であったのは、「変化への恐れ」、「愛着感の喪失」と「親達の間の敵意」の3点であろう。

しかし、この4点の指摘の中で、本作の少女に当て嵌まらないのは「見捨てられ不安」である。

なぜなら、少女は両親から嫌われていないことを確信しているからだ。

だから、この少女が切望するのは、ただ一点。

「両親の和解」による「家族の再生」。

それのみである。

それのみであるが、「親達の間の敵意」の感情が、深い憎悪の極限にまで尖ったものに爛れ切っていなかったが、「両親の和解」の事態の復元の困難さを、映像は存分に露わにしていくのである。

しかし、映像を観る者には把握し得ることが、12歳の少女には不分明なのだ。

だから少女は、「両親の和解」による「家族の再生」を求めて、健気なまでに必死に動いていく。

これが、映像前半を貫流する物語の流れであった。



2  子供の「見捨てられ不安」から解放させるに足る、甘えが許容される親子関係の力



少女の名は、レンコ。

小学6年生の、闊達(かったつ)な少女である。

そのレンコは、「両親の和解」を具現すべく、様々な身体表現を重ねていく。


父が別居するための、「お引っ越し」の日。

タンスの中を出入りしているレンコが、そこにいた。

「何してるんや?」と父。
「あるとき突然な、ここと私の押し入れの部屋が超常現象で繋がってしまうんや」

そう言うや、父をタンスに閉じ込めるレンコ。

「親達の間の敵意」の中で、「変化への恐れ」と「愛着感の喪失」に翻弄されるだけの12歳の少女が、健気なまでに必死に動いているのだ。

父の「お引っ越し」が終わった午後、母に報告するレンコ。

「あんな、あんな。お父さんとこ、ウチよりボロいで。あんなんやったら、すぐゴミに埋もれてしまうで」

息急き切って下校するや、父の転居先について話すのだ。

「今日は二人の門出やないの。外でパーといこう、パーといこう」

そう言って、外食に誘う母。

「門出?」と反応するレンコ。

外食先の店で、母は苗字を元に戻すことを告げ、その苗字を書いた紙をレンコに渡した。

「そんなん、離婚した人みたいやんか?」
「したら困るか?」
「家が2つ。それでええやんか」

未だ、父のサインのない離婚届けを確認するレンコだった。

親たちの勝手な判断で、「変化への恐れ」と「愛着感の喪失」に翻弄されるレンコのストレスが、遂に沸点に達する事態が出来した。

理科の実験の授業で、レンコは小火(ぼや)騒ぎを起こしてしまったのだ。

その事実を知って、動顛する母だが、娘のストレスを浄化し得ない現実に、今度は形式的な夫婦であった両親が翻弄されていく。

そんな娘と会って、即答しにくい問いをストレートに受ける父。

「何で、別々がええの?昔は仲良くしてたやんか。私はお父さんとお母さんが喧嘩しても我慢したよ。そやのに、何でお父さんらは我慢できんの?」

このレンコの正攻法の詰問に、即答できない父。

父は、大人の知恵で、この問いへの答えを「宿題」にすると約束したのである。

それでも、「両親の和解」による「家族の再生」を果たせない現実に苛立つばかりのレンコが、父からの「宿題」の答えを受けるシーンが印象的に描かれていた。

琵琶湖の夕景(イメージ画像・ウィキ)
以下、母と琵琶湖のホテルに行ったときに、待っていた父との会話である。

「縄を回してるの、疲れてしもうたんや。3人やったら、一人だけ休むわけにいかんしな」
「そんなこと、そんなアホなこと言いに来たんか」
「宿題やったしな」
「最低や」
「最低言われたってな、それしか言えへんのや。最初はちょこっと夢見てるだけやった。それが段々抑え切れんようになってな。一人で生きたい。そう思った。」
「お父さん、あたしのこと好きか?」
「ああ好きや、大好きや」

なお親子の絆を継続させている者同士が、肝心の問題から逃避せず、対等に話し合っているのだ。

離婚による子供のストレスを浄化するには、親子が直截(ちょくさい)に話し合うことが決定的に大事な事柄なのである。

まして、12歳の少女なら、それが充分に可能なのだ。

琵琶湖中部湖岸(イメージ画像・ウィキ)
娘が父に「最低や」と言い放っても、「お父さん、あたしのこと好きか?」と尋ねる娘の心情には、相手の反応に対する確信なくして問えない発問であることを理解し得ているが故に、当然の如く、そこに甘えが内包されている。

しかし、この類の甘えが許容される親子関係の力こそが、両親の離婚によって生じる、子供の「見捨てられ不安」から解放させるに足る何かだったのである。



3  他律的な児童期自我から自律的な思春期自我への「お引越」の物語



前述したような一連のプロセスを経て、少女はいつしか現実に向き合い、それを受容していく。

これは、琵琶湖の森を散策する少女のシークエンスの中で、極めて情感的に描かれていた。

「もうええの。そんなん、もうどうでもええのや。なあ、お母さん。私、早く大人になるからね」

愛する娘に対して自己の無責任さを謝罪する母への、少女レンコの、それ以外にない決め台詞である。


謝罪する母の所に戻らず、森を散策するという、「思春期彷徨」の果てに射程に収めた夏祭りの光景。

少女の眼に映ったのは、かつて円満だった両親と自分が、湖の中で戯れている幻想の風景だった。

「おめでとうございます!」

海老一染之助・染太郎の名台詞を、湖の中で、自分の心境に引き寄せて、繰り返し叫ぶ少女。

湖の中から出て、焚き火に当たる少女。

そこに母が現れたとき、既に、「自立」に向かう小さな意志を固めた明るさが、眩いまでに輝いていた。

「篭城作戦」に見られる、多分に他律的な児童期自我から、「森の彷徨」に見られる、自律的な思春期自我への「お引越し」を象徴する、この言葉こそが本作の全てであると言っていい。


思春期彷徨の果てに掴み得た自立への歩みの中で、少女は現実を受容し、本来あるべき自我の揺籃のかたちを立ち上げていくのだ。

短期間だったが、この一連の騒動の中で、「非日常」の負のスパイラルのリスクを自分なりに消化することで、内側が存分に鍛えられ、加速的な成長を遂げるに至ったのである。

それは、「負の因子」を「正の因子」に変えるプロセスでもあったのだ。

良くも悪くも、「負の因子」を「正の因子」に変える強い自我を作ってくれた、少女の両親の存在価値が、そこに垣間見えるだろう。

常に、子供の一次的自我を作るのは、その子供に最近接する大人以外ではないからである。

本稿の最後に一言。

よく言われていることだが、児童の研究の中で判明しているのは、両親の離婚が子供の甚大なストレッサーになりながらも、「親達の間の敵意」の感情が溶解しない限り、形式だけの家族を延長させる行為が、却って子供の成長の阻害要因にしかならないという現実の重さである。

従って、離婚の選択が正解のケースも多いということだ。

相米慎二監督
緊要なのは、離婚後も二人の親との間で、深い情愛による関係が継続されていること。

これに尽きるだろう。

それ故、本作のケースにおいて、無理に離婚状態を解消せずに閉じていった結論の選択は、決して誤っていなかったということである。

本作のヒロインは、その肝の部分を感覚的に把握し得たからこそ、あの印象深いラストカットに繋がったのである。


ともあれ、中二階からユキオと恋人の喧嘩を見ながら、正面に対峙しているのにレンコの存在に気づかないカップルや、学校で放火事件を起こし、母に追い駆けられたレンコだけが、バスに乗車するというシーン等々、相変わらず作家精神の迸(ほとばし)る作り手は、「展開のリアリズム」どころか、「描写のリアリズム」を蹴飛ばしてしまうカットが随所に挿入されながらも、12歳の少女が「負の因子」を「正の因子」に変える自立への歩みの物語を、そこに存分の情感を込めて、相米慎二監督は構築したのである。

(2011年10月)

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