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    1 週間前

2011年6月25日土曜日

ドライビング Miss デイジー('89)     ブルース・ベレスフォード


<「関係の濃密さ」を構成する要件についての映像的考察>



 1  「関係の濃密さ」を構成する要件について



 そこに微妙な温度差を示しつつも、「関係の濃密さ」を構成する要件について、私は以下の因子を包含するものと考えている。

 それぞれを列記すると、「親愛」、「信頼」、「礼節」、「援助」、「依存」、「共有」という心理的因子である。

 それぞれに当然の如く誤差があり、全てが必要要件であるとは言えないものの、この「関係の濃密さ」を、他の関係、例えば、打算的なビジネス上の関係や、職務における上下関係、近隣の表面的な関係などと分れるものとして認知することは当然である。

 従って、これらは、「友情」を構成する要件であると言っていい。

本作における、ユダヤ系老婦人Miss デイジーと、黒人ドライバーのホークとの関係を、この視座でフォローしていくと興味深いので、ここでは、「人生論的映画評論」の観点に依拠して言及していきたい。



 2  「形式的依存感情」から「信頼」感情の形成へ



 自慢のキャデラックに乗り込もうとするMiss デイジーの運転事故によって、息子のブーリーは、彼女に対して専属運転手を雇うように薦めるが、自立心溢れて、気位の高いMiss デイジーは全く聞く耳を持たない。

 母を案じるブーリーの目に留まったのが、人好きのする明朗な振舞いを見せる黒人男性。

 その名は、白髪交じりの初老のホーク。

かくてホークが、Miss デイジーの専属運転手として雇われるに至る。

 以下、Miss デイジーと、息子のブーリーとの短い会話。

 「彼に挨拶を」とブーリー。
 「憲法を書き換えない限り、私は権利を守るよ」とMiss デイジー。
 「私は今まで、黒人の使用人を使わずに育てられたのよ」
 「“黒人の使用人”?いかにも、保守派の使いそうな言葉だ」とブーリー。
 「私は偏見など持ってませんよ。見損なわないで!」



 偏見の濃度の高い「南部社会」の世俗文化と一線を画すかのような、ブーリーのリベラル性が垣間見える物言いだったが、偏見で人を見る狭隘さを持たないことを顕示するMiss デイジーの反駁のうちに、却って「人種」を意識するメンタリティーが露わになっていた。

 専属運転手としてのホークに対する、そんなMiss デイジーの拒絶反応も、時の経過と共に希薄になっていったが、それもまた、専属運転手を必要とせざるを得ない彼女の事情に因るもの。

 そんな折り、「事件」が起こった。

 「サケ缶盗難事件」である。

 何と、サケ缶1個の紛失で、大袈裟に騒ぐ母に呼ばれたために、ブーリーは、「解雇」の覚悟をも心に秘め、ホークを呼び出した。

 「お前に少し話が・・・」とブーリー。

 元来、クレバーなホークは、状況を察知するや、本来の雇用主であるブーリーに即座に反応した。

 「分りました、コートを置いてきます」

 肯くブーリー。

ここでホークは、後ろを振り返って、自ら事情を開陳していく。

 「奥様、昨日、留守中に棚のサケ缶を頂きました。“古くなったものは食べても良い”と・・・味が落ちていたので、新しいのを一個買って来ました。棚に置いておきます」

 瞬時に、その弁明に納得したMiss デイジーは、「ありがとう、ホーク」と即答したのである。

 一切が解決した瞬間だった。

 物語は、この一件を機に、ホークに対するMiss デイジーの態度が変容していくが、その辺りの事情は、年月の移ろいを告げる風景描写によって表現されていた。

 私は、この「サケ缶盗難事件」によって、ホークに対するMiss デイジーの「信頼」感情が形成されたと考えているが、無論、「事件」は象徴的なエピソードに過ぎない。

 ともあれ、それ以前において、ホークに対するMiss デイジーの感情を占有していたのは、専属運転手としてのホークへの「形式的依存感情」であったと言っていい。

 確かに、「形式的依存感情」に加えて、一定の「親愛」感情が、Miss デイジーの内側に読み取れるが、それは、ごく普通に厄介な、相手の不満や愚痴を吸収する能力に長けている、ホークの稀有な包括力に依拠する心理に委ねられた範疇を越えていなかった。

 私はそう思う。



 3  形式的な「上下関係」を形骸化させる程の、相互の「援助」感情の形成的強化



 墓参の際のエピソード。



 墓の字が読めないホークが非識字者であると知ったMiss デイジーは、早速、クリスマスプレゼントとして、ホークに「書き方読本」を贈った。

 元教師の習性も手伝って、Miss デイジーは、非識字者のホークへの「援助」感情が自然裡に生まれたのだろう。

 墓碑の読み方を簡潔に教えるMiss デイジーと、教えられた通りに墓を特定するホーク。

 単に状況判断の「知恵」を持つクレバーさのみならず、彼の学習能力も相当なものだった。

 「本を頂くなんて、初めてです」
 「私が教室で使っていた本よ。使い古しだけど、きれいな字を書きたければ、練習するのよ。今の市長も私の教え子なのよ」

 こうした一連の会話を観察していく限り、今や、二人の間には、「親愛」感情と「信頼」感情の形成的強化が読み取れるだろう。

 更に、晩年になって、「役に立つ男よ」と息子のブーリーに吐露したように、二人の「関係の濃密さ」は、既にこの時点で、異なった立場が規定し得る、形式的な「上下関係」を形骸化させる程の、相互の「援助」感情の形成的強化が窺えるのである。

 「援助」感情は、「親愛」感情と「信頼」感情なしには成立しないのだ。

まさに、「上下関係」を形骸化させる程の阿吽(あうん〉の呼吸の自然さの中で、二人の関係には「礼節」が保持されていたのである。

 「奥様、あなたは運転手が欲しい、私は仕事が欲しい。お互い、持ちつ持たれつです」

 Miss デイジーと比較するとき、この言葉に象徴されるように、ホークは一貫して、相手の不満や愚痴を吸収する能力に長けていたばかりか、「黒人差別」の発言に反応する堂々とした態度を堅持していて、そこには全く屈折が見られないのだ。

 この把握は、極めて重要である。

 なぜなら、ホークのような人格であったからこそ、気位の高いMiss デイジーとの「関係の濃密さ」を具現し得たとも言えるからである。

 ホークは、「関係の達人」だったのだ。

 そのホークは、晩年になって、ブーリーに給料アップを要求する際も、他の会社から引き抜きがあったという話をすることで、「良い気分ですよ」と明朗に言い放って、即解決するという具合なのだ。

 結局、この物語は、相手との関係を構築するにあたって、優れた能力を持つ、専属運転手としてのホークなしに存在しないことが検証されるのである。



 4  「約束された映像の、約束された軟着点」 ―― 映像の基幹テーマに寄せて





 本稿の最後に、「人種差別」の問題に言及する。

 「黒人の爺様とユダヤ人の婆様か。良い組合わせだ」

 警察官から車検証の提示を要求された際、事もなく済んで走り去っていく車を目視しながら、嘲笑混じりに捨てられた、件の警察官の露骨な言葉だ。

 本作は、このエピソードに象徴されるように、人種の壁を越えて心を通わせるという基幹テーマを、声高に発信することなく、さりげなく、偏見の濃度の高い「南部社会」の世俗文化が挿入されていたが、終始、それを目立つような「事件」として描くことはなかった。



 例えば、ホークが寺院の爆破事件の報に接したとき、後部座席のMiss デイジーに対して、自分の辛い過去を告白するという印象深いシーンがあった。

 「私の田舎でこういうことが・・・私がまだ10歳か、11歳の小さな子供の頃です。ポーターという友達の父親が、ある日、木に吊るされていたんです。その前日、私とポーターは蹄鉄(ていてつ)投げをやって、楽しくはしゃいでいました。“ポーターの父さんのように強い男になる”と。それが翌日、木に吊るされていた。両手を縛られ、体中にハエがたかっていた。私はその場で、思わず吐きました」

 嗚咽するMiss デイジー。

 「お泣きなさい」

 その際の、ホークの一言だ。

 これがアイロニーにならないのは、温厚なホークの人柄が、相手の如何なる振舞いをも吸収する能力に長けているからだ。

 「泣いてなどいません。なぜ、そんな話をするの?」

 Miss デイジーのこの反応には、もう尖りが見えない。

二人の関係が、濃密さを増してきていることを実証するエピソードである。

 まもなく、世間体を気にする息子の反対を押し切って、マーティン・ルーサー・キング牧師の話を聞きに行くMiss デイジーと、それをラジオで聞くホークを、映像は映し出した。

 そのスピーチのみを拾う、キング牧師の講演を再現してみよう。

 「南部は明るい可能性を秘めています。それにも関わらず、人種差別が社会的に教育的に、また経済的に南部の発展を遅らせています。南部にも、善意に溢れた白人が大勢います。ただ、彼らの声は聞こえず、彼らの主義主張は示されず、勇気ある行動は起こっていません。そういう人々に、我々は訴えます。勇気を持って、考えを声にして、他の人々を導いて下さい。社会が激動している今、この時、歴史に残る最大の悲劇は、悪しき人々の過激な言葉や暴力ではなく、善良な人々の沈黙と無関心な態度です。我々の世代が後世に恥ずべきは、“暗闇の子”の言動ではなく、“光の子”が抱く恐怖と無関心さなのです」

 人種・民族の壁を越えて、非暴力による幅広い連帯を訴える、映像の基幹テーマがラストシーン近くで拾われていた。

 「黒人の爺様とユダヤ人の婆様」という、本作を占有するコンビの組み合わせが、このメッセージのうちに収斂される物語性を内包していたのである。

 その直後の映像は、季節が変り、昔の教師にまで退行したMiss デイジーが認知症になって、老人ホームにその身を預けた姿を映し出した。

そんな彼女を励ますために、老人ホームを訪ねるホーク。

 「元気でやってる?」とMiss デイジー。
 「何とかやっています」とホーク。
 「私もよ」
 「何とかやっていくのが人生ですな」

 二人の会話は、もうそれだけで充分だった。

 「お前は一番の友達よ」

 そう言って、ホークの手を握るMiss デイジー。

 彼女が初めて、自分の正直な思いを吐露したのである。

 このシークエンスは、二人の関係が、「年老いたMiss デイジーを介護するホーク」という、人生を「共有」する地点に辿り着いたことを象徴すると言っていい。



 「関係の濃密さ」という視座で、本作をフォローしてきたが、抑制的な物語の余情は深く、限定された登場人物の表現力に委ねられた作品の成功は、殆ど、「約束された映像の、約束された軟着点」だった。(画像は、ブルース・ベレスフォード監督)

 そう思う。

(2011年7月)

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